長久保(長窪)宿の街道風景

長野県長門町<宿場町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 6 −峠の麓の坂道に開けた宿場街−




坂道に展開する長久保の町並 左は旧本陣の門


 中山道は文字通り山間を縫う街道で、碓氷峠、和田峠、鳥居峠など難所が多々控え、そのふもとの宿場は特に繁栄した。この長久保宿は、京都側に一駅置いてその内の一つ和田峠と、東側にはさらに笠取峠も控えた地だった。加えて城下町上田・松代へ向う街道が分岐したところでもあり、いわゆる信濃路と呼ばれた本山宿から軽井沢宿までの間では追分宿についで旅籠の数が多かったという(「宿村大概帳」によれば43軒)。
 この長久保宿は、その街道の様子、周辺の地形から笠取峠から坂を降り切る直前に設けられていることがわかる。峠を形作っていた山塊は五十鈴川によって削られ、谷間を形成し、中山道はその谷沿いに急坂を下っている。本流に合流する直前、平野を見下ろす位置にあり、人工的に作られた集落という印象が強い。
 当初はその本流、依田川沿いに開かれていたが、江戸初期の大洪水により流失し、高台のこの地に移動したのであった。計画的であったため宿場の形は非常に明確で、笠取峠側からの急坂の竪町、そこから直角に南に折れて横町と町名も非常に解りやすい。移設当初は竪町のみで、その後通行量の増加に伴い拡大され横町ができたものである。竪町は下町・中町と呼ばれていて、本陣石合家、脇本陣武内家は中町におかれた。今でも本陣は往時のまま残されていて、現存する本陣としては中山道では最も古いものと推測されている。
 この竪町はかなりの急坂で、所々に残る旧家は土台を水平にするための工夫が見られ、低い側では石垣が築かれている。門や土塀も段違いになっている姿が多く見られた。町家は平入り出桁造りが多く、妻脇に袖壁を張出させた姿が標準であった。このような町家がもう少し多く残っていれば、坂道に展開する絶好の古い町並であったのに、新しい住宅や駐車場などの空地となってしまっていることが惜しまれる。
 横町は現代になって商店街として開発されてしまったようで、旧家は多くは残っていなかったが、南端近くに残る竹重家は典型的な出桁造りで、街路にに向って微妙な角度を持って建つ姿は威圧感すら感じる。長久保宿の印象の何割かを占めるような印象度の旧家であった。




旧竪町の町並




旧竪町の町並 旧横町の竹重家

訪問日:2006.04.09 TOP 町並INDEX