名護屋浦の郷愁風景

佐賀県鎮西町【港町・漁村】 地図 <唐津市>
 町並度 5 非俗化度 6 −中世末期の名護屋城をもとに発達した歴史深い町−
 




 
 玄界灘に突き出す東松浦半島の北岸は幾つかの深い入江があり、地図を見るだけで港が発達するに相応しいところに思える。そのひとつ名護屋浦は湾の外を加部島に守られ波浪の影響を受けにくい地形で、事実古代より大陸文化の接点となり遣唐使などの船が寄港したともされている。






名護屋の町並 伝統的な旅館建築や商店建築が見られる

 
 中世には付近の豪族群は松浦党と呼ばれており、朝鮮方面との貿易を行っていた。名護屋浦は倭寇や貿易船の基地となっており、海外の記録にも浜崎や呼子と並んで名護屋の名前が見られる。
 名護屋というと名護屋城を想起する方も多いと思うが、豊臣秀吉の朝鮮出兵にあたり築城が命じられたこの城は、全国の大名を集結させ120箇所の陣屋を有していたといわれ、湾は船の出入りでごった返したという。別名千艘隠ヶ浦と呼ばれるほど入江が深く、港として軍事的拠点としても最適であった。
 一時は周囲の人口は10万を数えたとも言われるが、慶長の役後に廃城となり港も活気が失われた。しかし、繁栄の時期に海事に携わっていた名護屋浦の漁民は漁業に際しても特権が与えられており、それが江戸期全般にわたり続いた。そのため単なる漁村となったそれ以後も比較的裕福であった。
 古くからの漁村集落は名護屋城址の東側、湾口に近い位置にある。街路は海岸線に沿い曲がりくねり、家々が密集する。印象的なのが木造の大柄な旅館建築で、営業はされていないようだったが最近まで現役であったような風情だ。その近くにはレトロな看板を掲げた商店が眼につく。大正期に建てられたものといわれる酒屋である。
 その付近から北に路地風景が続く。木製欄干を持つ家が見られるなど、豊かな漁業利益を得て見栄えを競ったような色が伺える。また戸袋の鏝絵に屋号を記した旧家もあった。
 古い町並として地元の意識は全くないように感じられ、このままだと徐々に建物が更新されて町並から歴史を感じ取ることは困難になるだろう。






訪問日:2018.01.03 TOP 町並INDEX