那珂湊の郷愁風景

茨城県那珂湊市【港町・在郷町】 地図 <ひたちなか市>
 町並度 3 非俗化度 8  −水運・海運の拠点となり水戸城下をも凌駕する経済力を有した町−


 


 
湊本町の町並 
 



 
 海門町の町並  湊中央二丁目の町並  
 



 
 湊中央一丁目の町並   湊泉町の町並
   
 

 県の沿岸中部、那賀川の左岸に開ける那珂湊の町。古くは湊村と呼ばれ、文字通り港町として古くから発展を見た所である。
 江戸期には水戸藩の支配を受け、湊村には庄屋のほか漁業取締のための舟庄屋も置かれた。ここが一時水戸をも凌ぐほどの経済力を有したと云われるのは物資輸送の一大基地であったからで、それには那賀川の存在が大きく寄与している。河口近くの運河から涸沼に入り、一部陸送を兼ねながら北浦・利根川・江戸川を経由して江戸へ物資の輸送が行われた。また那賀川を遡る物流は水戸を経由して現在の栃木県烏山・黒羽付近まで水運が通じ、また久慈川沿いの各地から一部陸送を挟んで下ってくる物資も多かった。
 また海路も、東廻りの廻船が発達してから本格化し、蝦夷地の海産物や奥州各地の米や大豆、ニシン、干鰯、昆布、塩鮭などの漁獲品が運び込まれた。藩は経済面そして海防上も当地を最重要の地と位置付けており、諸国の廻船が入津する那珂湊には藩営の穀会所が設置された。藩関係の倉庫や廻船問屋が続々と立地し、港町として隆盛を極めていた。
 これほどの経済的基盤があることで多くの豪商が生みだされた。文化元年の領内長者番付では木内氏、大内氏、近藤氏などの名が見え、殊に木内氏は材木商などを営み、幕末には藩に4万2000両余りの貸金を持つほどであった。
 産業としては煙草、甘藷の切り干しなどがあり、煙草は明治期に県下一の製造高を誇った。しかし煙草の専売化により衰退し、また港としても国鉄常磐線の開通により物流が大きく変化し、町は転換期を迎えることとなった。以後は漁業を主体として町としての発展を続けた。
 現在の町の中心は、湊本町を中心に湊中央、海門町といったあたりである。その付近を一通り歩いてみた所、伝統的な建物は散在的に見られる程度で、古い町並というほどのかつての面影は感じられなかった。
 その中にあって間口の広い大柄な商家建築が大通りに面して幾つか残り、また四辻には看板建築の商店が現役で営業されている姿があった。枝道に入ると、小規模ながら商店が古びた構えのまま営業されていたり、旅館の看板のある建物も見られた。
 小高いところにある湊公園から見渡すと町の様子がよくわかる。那賀川の河口付近に右岸側の大洗町とを結ぶ海門橋が架り、その付近から北側の海岸部にかつて廻船問屋などが並び、町が発達していっただろうさまが伺える。
 

訪問日:2023.03.31 TOP 町並INDEX