復元された中津城天守閣 | かつての町人町地区には町家建築が広範囲に残る。豊後町の町並。 |
中津は江戸時代城下町が建設され、現在も町を辿ると歴史の香りがしてくる。米町、船頭町、水主町などとそれら旧町人町の名称が受継がれている。各町には町名の由来を記した小さな看板も充実し、町歩きを楽しいものにしてくれる。街路も多くでは細いままで、路地の形は当時と大きな変化はない。 古い町並は大きく三つに分類される。一つは旧町人町地区の商家、そして寺院群、後一つは面影淡くはなっているものの、武家屋敷の遺構である。 城は山国川を背後に構えられ、その地形から城下町は城を要に扇状に展開したことから扇城とも形容され、町の入口は西・南・東側にそれぞれ2箇所ずつ設けられた。寺町は城の防備のために、町中を流れる蠣瀬川を背後に、町人町地区とは異なった街路形態を持たせ、敵の目を欺くことを目的とした。今でも数多くの寺院が漆喰壁、または土壁をもって立地し、中でも赤壁で知られる合元寺はこの町のシンボルの一つでもある。 商家のたたずまいは密度はそれほど濃いものではないが広範囲に残り、当時の町の規模の大きさを感じさせてくれる。由緒有り気な町名を辿るとどこかでそのような町家建築に出会う。代表的な外観は切妻平入りで、二階は漆喰に塗り回され小型の矩形窓が穿たれているのが標準的だ。この窓は九州的だがほぼ平入りで占められているのが逆に特徴的に映る。中でも城下の東端近くの豊後町から蠣瀬町にかけては町家の占める割合が高く古い町並として評価できる。一本道上に展開していることからこれが城下と外部を結ぶ街道で、外部への出口が町名にも残る牡蠣付近に設けられていたのだろう。街路が交差点で直交せずわずかにずれながら交差しているのは、視界を遮る目的旧城下町では良く見られる。それがそのまま残されているのは、都市近郊地域といえる町としては貴重な風景である。 一方、中津駅に近い諸町界隈にも伝統的な家屋が残るが、こちらはやや外部の眼を意識したような色が感じられ、かつては町家が連続していたのだろうが更地となり駐車場となっている姿や、改修が加えられている家屋も少なからず眼についた。 この諸町から日豊本線を南に越えると、金谷町というかつての中級武家町で、一歩横路地に入ると車のすれ違いが不可能な細い街路に沿い、土塀があちらこちらに残る風景が展開する。かつての武家街は、城に近い上級武家地であった三ノ丁から片端町にかけてがほとんどその原型を留めない中にあって貴重である。建物は新築の住居とはなっているためこの土塀だけが城下の武家地を語り継ぐ唯一のものになっているようだ。 復元された天守閣を持つ中津城は今でもその遺構を色濃く残し、また福沢諭吉の出身地(旧居が保存され公開)であり、文教都市としても古くからその名が知られた町である。北九州市の通勤圏にも含まれ近代都市化が進んでいるものの、かつての城下町は大きく形を変えず、よく現在に残っていると思わせる町である。 |
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西蠣瀬町の町並 | 寺町の町並 |
寺町の赤壁で知られる合元寺 | 諸町の町並 |
諸町の町並 |
金谷西ノ丁の町並 |
訪問日:2006.08.14 | TOP | 町並INDEX |
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