新見駅から南東に1km余り、高梁川沿いに細長く旧市街が残る。山陰地方との繋がりを思わせる赤瓦の古い民家が所々に残り、格子や白壁土蔵、海鼠壁なども自然な形で眼に入ってくる。畳屋や味噌(糀)商など、古くからの商売も絶やさずに営々と続けられている姿も目立つ。
北半分はアーケードに被われた商店街に潰されているが、その雰囲気がまことによい。30年以上も時代が逆戻りしたような古びた商店群で、一部に袖壁が残る町屋風の建築が、そのままの姿で店舗を開いている。新しい市街の中心に出来た大型商店街に客を取られているのは明らかで人通りも少なく、そのような姿を良いというのは罪深い話ではある。しかし何ともいえぬ哀愁を帯びているのだ。
この町並は、中世の三日市庭(市場)に起源を発するとも言われている古いもので、出雲や伯耆に通じる街道にも当っていたため早くから商業地が形成されていた。名の通り毎月3の付く日に開かれ、遠くは和泉や摂津からも商人が集っていたという。これは以後江戸期に掛けて、高梁川における高瀬舟の終着点であったことも深い意味を持っているといえよう。
中国山地一帯で盛んだった和鉄生産の影響もあった。備中松山藩主水谷氏は、支藩の新見藩を鉄生産地として重視し、松山藩の直轄で経営を執り行わせた。鉄の輸送は牛馬が使用され、市域北部の千屋に定期的に牛市を開いた上、新見まで牛馬での輸送を行いここで舟運に切替えていた。今でも新見の風物詩ともなっている牛の碁盤乗りは、牛馬を活用する当時から語り伝えられてきたものなのだろう。
一方新見は1万8000石の陣屋町として整備され、初代関長治は商業を中心とした町の整備に力を注ぎ、商業都市として備中北部の中で独占的な発展を遂げた。城下町というほどの規模ではなかったものの、高梁川の東の丘陵地に本拠地を構え、周囲を関係者の邸宅で固め、高梁川沿いを商業地として定めている。今でも御用人屋敷の長屋門が残っていることからその名残を感じる。
今では地方の小さな都市であるこの町も、かつては一大都市として近隣の中心をなしていたのである。その雰囲気は現在も濃厚に感じられた。
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