庭瀬・撫川の郷愁風景

岡山市庭瀬・撫川<陣屋町> 地図
 
町並度 4  非俗化度 8  -クリークに浮ぶ沼城の町-
 




庭瀬の町並 庭瀬の町並




クリークが巡る低湿地帯に浮ぶ町です。  撫川城址。石垣もそのままに原型を保っています。




撫川の町並 撫川の町並

          

 この一帯はかつて、足守川のデルタ地帯に位置する低湿地帯であった。
 ここは備前・備中の国境にあたり、防備の拠点としての役割は重要なものとなっていた。戦国期には周囲に堀を巡らせた平城が築かれた。はっきりしてはいないが、庭瀬城・撫川(なつかわ)城はいずれも、戦国期に備前国を支配していた宇喜多氏に対抗するため、毛利氏勢力の備中南部の拠点をなしていたと考えられている。数少ない記録では天正年間(16世紀後半)、毛利氏の宇喜多直家攻めにあたり、まず「庭瀬(妹)近辺浦」に船を停泊させ、警備にあたらせている。この頃には庭妹城の存在が知られ、毛利軍は兵糧米400俵を村上景広に船で運ばせたといわれる。これらが示すように、当時河口近くに位置して、陸路では容易に近づけない環境であったことが、要塞を築くにふさわしい土地であったのである。
 戸川氏は関ヶ原の合戦後、軍功により庭瀬藩主に命ぜられ、初代達安は陣屋を造営している。4代目安風のとき跡継ぎがなく断絶してしまったが、名跡相続が許され、陣屋を二分して弟の達富が本丸と三の丸を、長らく宇喜多氏の支配下にあった撫川城に置き、撫川5000石の旗本となった。庭瀬陣屋は二の丸として知行所が設置された。その後藩主は幾度か変わったが、明治時代までここは陣屋町が形成されていたのである。
 庭瀬と撫川は、現在地図で見ても非常に近接しており、町を歩いてもどこが庭瀬か撫川かは判然としない。二つの城址は、現在も堀に囲まれて面影を残しており、特に撫川城は石垣や土塁が残っていて、遺構としてはかなり明確な姿で現存している。別名「沼城」とも言われた通り、この近辺は元来は役に立たない泥沼地帯であり、今でもクリークが町中を巡っている。水郷風景ともいえる集落景観が展開している。治水に要した努力は、如何ばかりであったろうか。
 古い伝統的な家々はそれほど多く残っていないが、集落内には漆喰に塗り込められた、中二階で虫籠窓、本瓦などの見られる旧家が散在している。街路は非常に狭く入組んでおり、近代になって開発された町ではないことは明らかであるが、その不便さゆえ、町の更新が今後も加速度的に進む可能性もある。古い家の中には無住となり、本瓦の屋根が半ば崩れ落ち、無残な姿をさらしている風景も見られた。城址だけでなく、町家も歴史を語り継ぐ証人である。一部でも保存していけないものなのだろうか。

 

訪問日:2003.06.25 TOP 町並INDEX