直方の郷愁風景

福岡県直方市【城下町】 地図
 
町並度 5 非俗化度 8  −遠賀川水運と長崎街道により発達した城下町−






殿町の町並
  

 
直方は筑豊炭田地帯の一部を占め、石炭産業の中心地となったところである。炭鉱の閉山後は北九州市、また福岡市へも通勤可能であることからそれらの衛星都市として機能している。
 黒田長政は、関ヶ原の役を契機に筑前国を領し、直方を含む鞍手郡は慶長期に検地が行われている。長政の死後に、福岡藩は本藩の他2つの支藩にわけられ、四男であった高政は東連寺藩の藩主として直方に居を構えた。延宝3(1675)年には直方藩と改められ、遠賀川左岸に城下町が整備された。町としての発展は、この遠賀川の恩恵によるところが大きい。上流域の農山村からの物資がここで中継され、年貢米もここから積出された。また小倉から長崎を目指す長崎街道が享保21(1736)年、この城下町内に引入れられたことも商業の振興に大きく貢献した。宿駅の機能はなかったが、要人を含む旅人の通行が加わったことにより賑やかな町場が発達していたに違いない。
 石炭業も江戸期から興っていて、福岡や博多に送られていた他、大坂方面にも移出され、製塩業や鍛冶業にも使用されそれらの能率を飛躍的に向上させている。輸送には遠賀川水運が使われ、河口の芦屋や若松に運ばれ、そこから海運に委ねられていた。とはいえ明治前期頃までは小規模なものであったが、炭鉱地帯として飛躍的な発展を見たのはその後鉄道網が整備されてからである。明治24年には若松から鉄道が伸びてきて、さらに複線化も行われて輸送力が爆発的に増大した。その頂点となったのが第一次大戦から第二次大戦にかけての戦時の特に鉄の特需によるもので、市内にも160余もの鉄工場があったという。
 駅前付近はアーケードに被われたやや古びた商店街が連なるが、それほど寂れた印象ではない。町並は商店街が途切れる殿町付近から始まっている。殿町という町名からも、ここが城下町であったことが伝わってくる。付近には洋風建築が幾つか残り、またやや二階部が通りにせり出し、屋根部分が二重・三重となった外観の独特の町家風建築も見られる。これは大阪など都市部でしばしば見られるものだ。
 その界隈から南に向っても、車の離合がやっと可能な程度の街路に沿い古い佇まいが残っていた。これが旧長崎街道に違いない。妻入りで入母屋風となっている九州北部特有の町家や、古びた造り酒屋の立派なたたずまいなどが見られ、大規模に連続した箇所は少ないものの旧街道沿いらしき匂いが色濃く漂っている。
 この長崎街道沿いには数箇所案内板が設けられ、ささやかながら外来客を意識されているようであった。
 
 
 




新町二丁目の町並 新町三丁目の町並 




新町三丁目の町並


訪問日:2008.08.15 TOP 町並INDEX