沼田の郷愁風景

群馬県沼田市<城下町・商業町> 地図
 
町並度 4 非俗化度 7  −発達した段丘上に形成された城下町−






材木町の町並 
 

 
県の北部、利根川左岸に展開する沼田の町。付近の利根川沿いは典型的な河岸段丘地形で、市街地は丘の上の平坦な土地に展開している。比高は100m近くもあり、上越線の駅は段丘の下に設置されているため、市街地まで歩いて到達するにはかなりの困難を伴う。それを象徴する風景が坂道の途中にある屋根付きの階段だろう。もっとも階段の区間はわずかで、前後は延々と急坂が続いている。
 町の原点は城下町で、中世前期から数氏がこの地に居を構え周囲を支配していたが、享禄3(1530)年に沼田顕泰が台地の北西部に城を築造し、沼田城とした。永禄3(1560)年、上杉謙信の関東出陣により城を掌中に収め、以後一帯は暫く謙信の支配下となった。天正6(1578)には謙信の死により小田原北条氏の支配に置かれた。徳川家康の関東入国後は真田氏の領地となり、以後も複雑な変遷を経て、寛保2(1742)年に3万5000石で入城した土岐氏が以後幕末まで支配した。
 城下町の形成は沼田氏が城の周囲に材木町・鍛冶町・本町の三町を割り立てたことが始まりといわれる。天正18(1590)年から居城した真田信之は近代的な城郭としての体裁を整え、17世紀前半の慶長期には荒町、鷹匠町などを町立てし市街地を拡大していった。水の便の悪い台地上であり、隣接各村より用水を引き、合流させて城下の用水とした事も大きく、町場の発展に大きく寄与した。
 沼田藩の領地は平地に乏しく、水田より畑作が主体であった。中でも煙草は沼田煙草と呼ばれ特産品となった。行商人は江戸をはじめ上総・下総両国周辺まで足を向けていたという。城下町には周囲の山村からの物資も集まり、商家も多く建ちならんだという。
 
 
駅周辺と市街地とを結ぶ道は険しく屋根付きの階段が設置された箇所もある




中町の町並
 屋根付きの階段や坂道を登りつめると唐突に市街地が始まり、その対比に驚かされる。坂道直上の下之町・仲町・上之町付近、そこから街路が屈曲し材木町あたりが古くからの町の中心で、国道が踏襲している。材木町の交差点には土蔵を従えた厳かな商家建築が残り、下之町から上之町にかけては商店街となっているものの所々に構えの古いものが散見される。味のある古い看板を掲げた店舗もあり、興味深い町歩きができる。
 一角には旧沼田貯蓄銀行の建物が洋風の佇まいを見せ、町並の印象にアクセントを添えていた。



旧沼田貯蓄銀行(M41)


訪問日:2018.06.09 TOP 町並INDEX