小浜の郷愁風景(1)

福井県小浜市<城下町> 地図
 
町並度 7 非俗化度 5 −越前と京都の雰囲気を兼備えた若狭の城下町−





 「三丁町」と呼ばれた市街西部に残るかつての歓楽街 狭い路地に覆い被さるようにかつての料亭や茶屋が密集して残っている


 海岸線の出入りの激しい沈降(リアス)海岸の続く若狭海岸にあって、この小浜は一段と入組んだ湾奥に立地して波も穏やかである。中世より南蛮船が象などを乗せて入港した記録もあり、東アジアの交易港としても広く知られていた。若狭の中心として深い歴史を刻み、今でも多くの寺社が残り観光資源となっている。
 江戸期になると城下町として町の体裁は整えられている。関ヶ原の役の慶長5(1600)年に京極氏が入部して小浜城を建設、その後武家屋敷地区、商業地区、漁業地区を区分けした厳然たる町割が行われた。幕末まで大きく変更されること無くそれは続き、現在でも街中を歩くとその名残を感じることが出来る。


 


「三丁町」の町並  鹿島地区の町並






住吉地区の町並
 

 
 特に市街地の西半分には家並・町並にその香が色濃く残っている。小柄で平入り、両妻に袖壁を張り出させ、屋根瓦と軒庇との四辺に囲まれた雰囲気が強調される2階部は、越前を思わせる。出梁造り調の立て方も目立ち、2階部分がやや前にせり出したようなイメージを受ける町家も多い。
 しかし一方京都の町を思わせる端正な雰囲気も町並全体に漂う。実際ここは京都とのつながりが強かった地域で、私も探訪中に地元のお婆さんと短い会話をしたが京都の言葉に極めてよく似ているのに驚いた。若狭の海産物は盛んに都に送られ、特に鯖は有名で鯖街道という名が付けられていた。「京は遠ても十八里」と言われたように地図を見ても実際距離は近い。
 港町として優れていたこともこの町の繁栄を一層深めていたようで、元々穀物の生産が乏しかったこの地方は羽後や加賀などへの海運を通して米を買い込んで、陸路または琵琶湖水運を利用して都に運んでいた。都に最も近い港町ということが、この町の発展を決定付けたのだろう。
 小浜の町の賑わいを証明するのが、町の西端に残る遊郭街であろう。柳町・猟師町・清水町界隈でこれらを合せ三丁町と呼ばれ、料亭やお茶屋が建ちならんでいた。その繁栄は明治以降も随分続いたようで、他の地区に散在的に残る家々より2階が高く、また桟などを取付けた姿を見られ遊興の地であることを色濃く伝えていた。歩いているとどこからともなくある意味淫靡な雰囲気が感じられるのは気のせいであろうか。もっとも地元のご年輩の方に聞けば、高すぎて近寄れなかったとのことで、庶民には縁のない店々だったのだろう。
 町は第二次大戦中も大きな破壊を受けなかったのだろう、この三丁町を頂点として広範囲にわたって古い町並が残り、駅前大通りを越えて東側にも伝統的な形式の旧家が見られた。多くの地区では更新が進んでいるものの、見応えのある町並である。町のあちこちにはその地区を案内する立て看板が設置されているが、ごく一部で最近人工的に手を加えられている姿を眼にしただけで、ほとんど自然体の家並である。観光地のように整備されて欲しくないが、家々が傷んで更新されていくのは忍びない。その相矛盾する思いに次回訪ねた時にどう応えてくれるか、そんな思いを抱きながらこの町を後にした。
 
 
 



三丁町の町並(上3枚:2009.08撮影)

※注記の画像以外は2004年8月撮影

訪問日:2004.08.14
(2009.08.15再取材)
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