大戸の郷愁風景

群馬県吾妻町【宿場町】 地図 
 
町並度 3 非俗化度 9 −信州街道の宿場町−


   中山道高崎宿から榛名山の西麓を回り現在の嬬恋村から鳥居峠を越える道はかつて信州街道と呼ばれていた。中山道より北側で上信国境をなす街道で、草津温泉の湯治客、善光寺参りの旅客などで賑った。北信濃からはこの街道が最短距離であり、年貢米なども運ばれ中山道に劣らぬほどの賑わいがあったのだという。 
大戸の町並
 
 
 ここで紹介する大戸地区は関所が設けられていたことで知られている。大戸関所は寛永8(1631)年に設置され、街路が二手に分かれる要所でもあり防衛上も重視された。中山道の裏街道のような位置付けであり、碓氷関所の裏固めの意味も持ち幕府が直接管理していたのである。
 付近の山を通過するなどして関所を逃れようとするものは厳罰に処せられ、一例を挙げると嘉永3(1850)年、侠客国定忠治は関所破りの罪で磔
(はりつけ)の刑に処せられている。
 また関所を通過できるのは朝六時から夕六時までと定められていた。
 脇道の落合うところでもあり、宿場町が発達したこの大戸地区であるが、山深いところにあり鉄道など近代交通の恩恵を受けることもなかったため、今見る町の姿は山間の小さな集落でしかない。天保8(1837)年の宿絵図では戸数68が記録されているその賑わいは全く過去のものになっているようだ。
 その中で出桁の平入り家屋が幾棟か残っていることが古い町であることを物語っている。トタン屋根が目立つのは寒気の厳しい地であるためか。中には遊郭を思わせるような丸窓を持つものや、奇妙なうだつ調の壁を立上げた家屋も見られた。
 この大戸地区から2kmほど西に向ったところに本宿という地区がある。ここは大戸関所が置かれる以前に関所であった所とされ、その後も関所の業務に携わり、また中山道軽井沢宿の助郷を勤めた時期もあった。町並としては残っていないが街路に接して大柄な旅館建築が残り、近代に入っても多くの旅人がこの街道を往来していたであろうことを示していた。
  




大戸の町並




本宿の町並 立派な旅館建築が残っている

訪問日:2008.10.12 TOP 町並INDEX