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大江町は由良川沿いに開ける小盆地状の地形に町が展開し、その中心集落は河守と呼ばれる。何でも由良川はその悠然とした響きとは異なり古くから数限りなく氾濫を繰返してきた暴れ川で、近年でも観光バスの屋根に客が取り残されて救助されている映像を覚えておられる方も多いだろう。河守という地名は由良川の治水に悪戦苦闘してきた歴史をそのまま現しているようである。 |
河守の町並 | |
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古い町は国道より西側、さすがに土地が少々高まっている所に連なっている。街村的に一本道に沿い展開する町並で、北から南に向って緩やかに下り坂となっている。漆喰に二階部を塗り回された伝統的な家屋が密度を保って残り、古い町並を形成していた。 『丹後風土記残欠』という書物内では、「町長さ五町ばかり、商家、茶屋、宿場多くよき町並なり」というくだりが見える。周囲の山地では和蝋燭の原料となる櫨や桐の実などが多く収穫され、それらは河守に集められて製蝋され、各地に売られていった。丹後河守蝋燭は全国的に有名なブランドであったという。その他養蚕も盛んで、生糸も多く生産されていた。 由良川も平時にはこの町の発展に大きく貢献するものであった。川運の拠点として河守には江戸期には常時50艘を超える商船を保有し、舟運に従事する者が多かった。丹波の大半の各地はこの由良川水系に属し、それだけに物資輸送にかかる役割も大きかった。 又、福知山城下と宮津を結ぶ宮津街道に沿っており、宿場として旅籠業を営むものもあって河守は水陸両面の拠点として賑わいを示していた。 町並は1km以上にもわたって連なり、河港として大きく繁栄し、また産業・商業の中心として栄えていたことがわかる。但し今残る町家群は江戸時代にまで遡るものは少ないと思われる。つし2階と呼ばれる立上りが低い造りや虫籠窓などが見られないからだ。代りに袖壁がほぼ各家に残りそれがリズミカルに連なる姿は見応え感がある。街路の緩やかな勾配、そして曲線が演出効果を発揮している。但し南部になるとやや空地が目立ち、連続した町並景観は途切れがちであった。 国道からは全く切り離されてしまったため地元の人以外通過することもないこの河守の町並。地元は全く古い町並と認識されていないようであったが決してその価値は低くない。早くそれに気付いてほしいと思いながら後にした。 |
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訪問日:2009.08.15 | TOP | 町並INDEX |
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