大垣の郷愁風景

岐阜県大垣市【城下町・宿場町】 地図
 
町並度 4 非俗化度 6 −城下の川港・美濃路の宿駅の機能も備えた船町界隈−
 
 濃尾平野の北西端に位置する城下町大垣。最初に城が構えられたのは16世紀中盤とされている。確実な史料としては天文12(1543)に初めて大垣城の名が見える。豊臣系の大名が城主をつとめていたが、関ヶ原の役の折には西軍石田三成の本拠となっており、北部の中山道赤坂宿に接する岡山に布陣を敷いた徳川家康率いる東軍と対峙し、落城した。その後石川氏他数度入れ替わり、寛永12(1635)に摂津尼崎から転封された戸田氏が城主になって以来、幕末まで同氏による支配が続いた。
船町一丁目の町並




水門川と住吉灯台 船町六丁目の町並
 

 天守閣は内外二重の濠に囲まれ、武家屋敷が配置され7箇所の門により城外に通じていた。名古屋と中山道の垂井宿とを結んでいた美濃路も内部に取込み、入口と出口には名古屋口門と京口門と呼ばれる総門が設けられていた。有事の際には全て閉じられ籠城できる仕組になっていたという。門の外側は町家十ヶ町と呼ばれる町人地であった。
 また城下の美濃路は宿場町としても機能しており、濠の内側を何度も屈曲させながらその間に本陣・脇本陣それぞれ1、問屋場1、旅籠14を有していた。
 大垣城下は周辺地域と同様度々水害に襲われ、戸田氏の最大の政策は治水対策であった。明治以後も水害が頻発した他、濃尾地震の被害や第二次大戦時の空襲もあり、市街地に当時の建物は多くは残っていない。
 その中で、城下町の南側、旧船町湊付近は比較的残存度が高く、古い町並としても評価できる。この港は濠と連絡する水門川に設けられていたもので、揖斐川を経由して桑名をはじめとする下流側の町場とを商船が往来していた。付近に船問屋が立地したほか、大垣藩主の江戸往復にも使われた。この付近が船町と呼ばれるのも川港を拠点に栄えた町であることを示している。現在、濠の一部と水門川は残され、港付近には木製の灯台(住吉灯台)が保存されている。
 町並が残るのは船町湊より南西側、旧美濃路沿いを中心とした一帯だ。この付近でようやく美濃路は直線的になり垂井宿へ向っている。両側に切妻造平入り、袖壁付の町家が残るが、宿場内とはいえ街路が当時としては非常に広い。片側二車線の車道があり、歩道を両側に挟んで展開する。これは明治の濃尾地震後の復興時に拡幅され、その時に建てられたものではないかとも推測される。
 この県道沿いの町家は連続した箇所は少なく、保存の動きもないようで今後徐々に失われていくことが懸念される。街道沿いよりも連続性があるのは切石町界隈で、北側に派生する道筋に沿い袖壁が連続した町並が残っていた。家々の造りは似ているのである時期に集中して建てられたのだろう。市街中心といってもよい区域で、古い町並の連続性が保たれているのは貴重である。
 船町湊付近は「奥の細道結びの地」として知られ、芭蕉はここで大垣の多くの俳人と交流したあと、この水門川から伊勢へ向ったとされる。港の遺構を含めた文化的景観の維持にあたり、引立て役として周囲の古い町並は十分有効であろう。主題になるほど残っていないのは残念であるが、保存をする価値は残されていると思う。
 




船町四丁目の町並 船町四丁目の町並




船町六丁目の町並 切石町二丁目の町並

訪問日:2007.10.14 TOP 町並INDEX