大石田の郷愁風景

山形県大石田町【商業町・川港町】 地図 
 
町並度 4 非俗化度 8  −最上川水運の一大拠点−



 大石田町は県の東部やや北寄り、西に出羽三山を仰ぎ、北は新庄など最上地域、東は尾花沢市、南は村山市に接している。町域中心を最上川が南北に貫流し、その右岸に古くからの町が開けている。
町裏を流れる最上川の風景








蔵造りの建物が散見される町並
 

 近世初頭から河岸が発達し、川港町として歴史を刻んできた。江戸初期頃には既に現在の山形市にあたる船町と河口の港町酒田が舟運で結ばれ、川港が整備されていった。
 船町、大石田、清水(現大蔵村)が最上川三大河岸と呼ばれ、城米と呼ばれた年貢米の輸送態勢などもこの時確立されている。大石田河岸は当初最上川船の統制管理を独占的に請負っており、元禄16(1703)年の記録では米350俵積の大船が136艘、中船128艘、小船28層などと計上され、往来する荷船群を取り仕切った。後に酒田湊が管理する酒田船と中上流域の河岸で管理する最上船とに分けられ、河岸も増やされて統制管理も年期請負制となった。
 寛政4(1792)年には幕府が川船役所を大石田に設置、舟運の秩序向上が図られ、以後明治5年に通船が自由化されるまで存続した。このように大石田は江戸全期にわたって最上川の物資輸送において最も重要な拠点であり、高い地位を保持していた。川運を背景に荷宿や問屋業、各種商人が多く生れ町は発達した。
 町の中心は最上川に沿う東西の街路で、今でこそ堤防で町から直接川面は見えないものの、かつては裏手からすぐに荷が積み出されていたことだろう。大きな土蔵が敷地背面の川に近い位置に多く見られる。明治後期になり国鉄奥羽本線や陸羽西線が建設されるまで、幹線輸送路だった名残が感じられる。荷宿を営んだり商人だった者は地主経営に切り替わり、明治後期以降は地主の町として知られるようになった。
 町の中心はは東側の支流が注ぐあたりから西へ500m余り続き、土蔵造りのいわゆる店蔵が町並を形成している。多くは商売をされていたのだろうが今は一般の住宅として使われたり、飲食店などとして利用されているものもあった。外観は個性に富んでおり、妻入りのものもあれば平入もあり、二階部の観音開きの土扉の違いなどを見ているだけで楽しいものがある。
 




家々の敷地裏手には大柄な土蔵が多く見られた

訪問日:2024.04.14 TOP 町並INDEX