筑後大川の郷愁風景

福岡県大川市<港町・産業都市> 地図
 町並度 6 非俗化度 5 −筑後川河口近い水運の拠点に産業も集積した−


 町並の中心にある高橋家住宅。宝永7(1711)年
から続く酢醸造業です。




 道路の端に並んでいる石は当時の領界を示して
いた標柱です。
一般公開されている旧吉原家住宅。
 
 

 筑後川下流の古い町というと柳川市がすぐ頭に浮かび、実際一度訪れているが、今回その北側の大川市を訪れてみて予想以上の町並現存度に驚いた。町並としては一般に全くといっていいほど知られていないだけに、自然体の佇まいは郷愁を感じさせるに余りある。
 古くは三潴(みずま)荘という荘園に属していたというこの地は、元和7(1621)より久留米藩有馬氏と柳川藩立花氏の両方の支配に属している。境界は町の中心を分断し、久留米藩側の榎津地区と柳川藩側の小保地区は「御堺江湖」という掘割で仕切られていた。今でも町を縦横に巡るクリークにその面影を感じさせ、浄福寺門前には境界石が今でも残る。
 榎津と小保は町場であった。いずれも筑後川の河口に臨む位置にあり、当時から水運の要衝で、榎津はもともと小城下町であったが、18世紀初頭に若津港が開かれてから港町としての発展を見る。また小保地区も佐賀藩領への渡船場があり宿場的な意味合いを持っていた。商家、問屋が集積し、遊郭も存在していたという。そしてこの港町は、最盛期には筑後の産物の積出し、長崎蔵所に送られた天領日田の公米を川運から海運に切り替えた港でもあり、大阪商船、沖縄海運などの大型船も出入りしていたという。
 大川市は低平な市域で、広々とした感じを受けるが、この古い港町の地区だけは違う。車の通行も容易でないような細い路地が入組んでいる。また水路も縦横に巡っており、町割は江戸期のままのようであった。町並の東端にある東家住宅は藩境に位置し、19世紀初頭の建築と見られ九州では珍しい平入りの町家。樟脳を商い屋号を加羅津屋といった。その後醤油製造業など職種を広げ栄えた。榎津地区の高橋家は酢醸造で栄えた豪商。小保地区を代表する旧家・吉原家は町を管理する立場にあり、中庭を有する屋敷型の邸宅で公開されている。その他にも妻入り漆喰塗込めの町家が多く残っており、町並の景観に彩を添えていた。
 この町はまた、江戸中期から木工業、特に家具生産が主産業となっている。榎津の久米之助が家臣数名に大工職を学ばせたのが始まりといわれ、今、町を歩いても木材を扱う町工場が多く目に入る。それらの佇まいもこの町の印象を一層濃くしてくれる。

 
          
正面が東家住宅。二階には当時の屋号「加羅津屋」が彫られ、面影を濃く伝えます。
 裏道には木工業の町工場が点在し、その姿も何ともいえない味わいがあります。

この地区のみで見られる独特の鳥・カササギ


訪問日:2003.03.23 TOP 町並INDEX