岡崎の郷愁風景

愛知県岡崎市<城下町・産業町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 6  
−徳川家康ゆかりの城下町 東海道と矢作川の水運を得て賑った−






八帖町の町並 
 
 矢作川に沿い市街地が開ける岡崎の町。その恩恵により発展してきたところである。
 徳川家康は岡崎城で生誕したとされる。実際居城したのは10年ほどで、その後田中氏、本多氏と変遷した。この本多氏の時に岡崎藩が成立している。
 城下町の本格的な造成は田中氏の時に行われ、城山を一部崩して西側の沼沢地を埋めるなどし、そこに田町・板屋町などの町人地を置いた。城山を削った跡には材木町として職人を配置した。東海道も城地に引き入れている。また矢作川の大改修を行うなど、岡崎の基盤をつくった田中氏の功績は大きいものがある。
 本多氏に代ってからも町は益々の発展を見ており、殊に東海道筋は本陣・脇本陣がそれぞれ3軒、100軒を超える宿屋が存在する屈指の宿場町となった。岡崎女郎衆と呼ばれた飯盛女が有名であったこともこの地の賑わいを示している。それは街道の往来のみならず矢作川の水運が盛んに行われていたことと無関係でないだろう。廻米やその他物資の積出が行われ、土場と呼ばれる河岸があちこちに設けられた。
 以後西三河地区の商品流通の中心であり続け、酒造をはじめ呉服屋や質屋などの大店が建ちならび、木綿や味噌などの特産品も生れた。特に八丁味噌は有名で、現在でも二つの業者が伝統的な構えを守りながら操業している。この八丁味噌は大豆そのものを麹化して醸造するもので、二夏二冬かけてようやく完成する手間のかかる豆味噌である。矢作川水運によって原料の入手が容易で、また豊富な伏流水もあり、気候風土も適していることから必然的に発達したともいえる。三州味噌とも呼ばれたこの味噌は三河武士のエネルギーの源といわれ、長期保存が利くことから兵士の兵糧として珍重された。
 その名も八帖町にある二つの八丁味噌工場付近は醸造蔵などが古い構えのまま連続し、自らが古い町並を演出している。光寺の土塀と土蔵が両側に連続する八丁蔵通りはその真骨頂である。
 東側の城に近い辺り、板屋町や康世町といったあたりにも町家建築が見られる。旧町人地だった一帯で、二十七曲りと呼ばれた城下町独特の街路は現在もそのまま受継がれているわけではないが、入組んだ路地から時折岡崎城の復元天守が望見され、城下町時代をしのぶことができる。

 




八帖町の味噌蔵





板屋町の町並
八帖町の町並



板屋町の町並


訪問日:2010.01.02 TOP 町並INDEX