沖家室の郷愁風景

山口県東和町<漁村> 地図 <周防大島町>
 町並度 6 非俗化度 10 −江戸期以来遠洋漁業の基地であった町−
 




集落を俯瞰する




 島の漁村集落らしく路地主体の風景が展開する


 山口県南東部、瀬戸内海の島々の中でも大きな屋代島は、地元では大島と呼ばれ、本土とは橋で陸続きになり釣り・海水浴、そして蜜柑狩り観光客の押し寄せる観光の島である。
 島の北側は2車線の道路が結び開けているが、南側は大きな集落も少なく、比較的島の少ない海域であるので、開けた海の眺望から良いドライブコースともなっている。この沖家室島は、島の南東部に浮かぶ面積1平方キロにも満たない小さな島である。本島からは昭和58年に架橋された。
 ここは江戸時代から、一本釣り漁業で暮しを成立させてきた、歴史の古い純粋な漁師町である。
 一本釣り漁業は広い漁域を必要とした。不漁になると、遠征をせざるを得なかった。ここの漁師は、やむを得ず九州西部の五島列島、讃岐の与島近海などまで出漁していた。明治初期には、本土側にわずかに開ける平地や山裾に沿って、700人ほどの人が暮し、ほとんどが出稼ぎ漁に従事していたという。
 維新後、出漁先より入漁を拒否されることが多くなった。時には漁具、獲物を押収されることもあり、新たな漁域の確保に汲々としていたという。
 果ては朝鮮組といわれる朝鮮海峡への漁団をはじめ、筑前組・馬関組・伊万里組などの船団が組織され、現地と漁業権交渉にもあたり懸命の努力で、生活を確保していったのである。
 春に地元の漁を終え出稼ぎ漁にたち、盆に帰省するだけで秋まで遠征を続ける、このような漁が行われた地域は瀬戸内では他に広島県の豊町、内海町などが知られる。
 一方、ここは明治末期以降、ハワイ移民を多く生んだ地であった。最初は日本政府とハワイ王朝の間で交された移民条約に基づくもので、沖家室の住民はハワイ漁業の開拓者と言われている。その後漁業に留まらず、砂糖産業その他の産業に従事し成功する者を聞き、次第に人口が流出していった。また、一本釣り漁業自体の不況、近年の過疎化もあり、現在の沖家室は、活気のあまり感じられない寂しい漁村となってしまっている。
 町中には漁師町独特の狭い路地、雑然とした家並があった。数軒しかない商店、郵便局の構えも時代に取り残されたような雰囲気を漂わせている。何も知らずに訪ねると、訪れたこともないのに懐かしい感じを抱かせる、平和な海辺の集落のようだ。








訪問日:2002.09.08
2014.01.13再取材
TOP 町並INDEX


旧ページ