近江八幡の郷愁風景

滋賀県近江八幡市【商業都市・城下町】 地図
 
町並度 8 非俗化度 3  −八幡堀は町の象徴−


 近江八幡は湖東地方の中央部、古くは城下町として栄えた町である。
 豊臣秀吉の甥である秀次が八幡山に城を構え、西側に開けた琵琶湖から水路を引入れ周囲に堀を穿った。城山の北に武家地、東に町人の町を計画的に配置し、町の骨格が形作られていった。
 内堀として開削された八幡堀は、琵琶湖を通航する船は全てここを経由するように命じられていたほどで、城下に直接物資を持込むことが出来たこともあって商業が大層繁栄した。八幡より古く城下町が形成されていた安土の商人もここに移り住んでくる者が多かったという。
 城下町としての期間は短かったが、その後長らく一大商業都市として位置づけられる基盤は、その城下町時代にほぼ整えられていたといってよい。

八幡堀の風景




永原町の町並




永原町の町並 為心町の町並 左は明治時代にかけ北海道の漁場開発や小樽運河の開削などに携わった岡田家
 

 八幡堀は現在でもよくその姿を残し、水辺には土蔵を中心とした古い建築物が多く残り、独特の風情を感じさせる。訪ねる観光客も多い町で、八幡堀周辺が訪問客の訪れる中心となっている。堀を巡る小さな遊覧船も行交っている。
 一方堀の東側には旧町人町が展開する。秀次が京にならって碁盤目状の町人地を計画した遺構、そして町家建築も密度濃く残っており、付近は重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。直交するそれぞれの街路には京と同様小路名が付けられていた。その中心となるのが新町(新町通)と永原町(永原通)界隈である。この二つの小路では、古い町並と呼ぶにふさわしく平入り、切妻の連続した家並が展開し、一部にはうだつを構えた旧家もある。都市型の密集した姿であるにも関わらず、間口は京都で見られるものと比べても格段に広いものであり、いかにこの町で商業が大きく繁栄していたかがわかる。永原町界隈は建物にやや人の手が入り、漆喰白壁を強調した造られた家並になっているやに思われたが、新町通では黒漆喰や格子などが原型を保った町家が連続しており、家並の先には借景のような八幡山を背に、非常に絵になる古い町並の風景があった。その周囲の小路にも至る所に古い町家建築が見られる。その範囲は広く当時の商業町の規模の大きさを思わせる。
 京阪地区への通勤圏に含まれる中で本格的な古い町並が残されているのは、現代になって幹線国道沿線から外れ、また鉄道の駅も町から少し離れた位置に設けられたこともあり、近代都市としての開発が余り及ばなかったためであろう。そうした意味では古い町並としては、非常に幸運であった。
 八幡商人と呼ばれたこの町の商人は、秀次の時の楽市楽座制を基盤に、水陸の交通の交わるところであったことで一層集積し、都市化を加速させたのだろう。江戸の城下町建設の時には既にその中心である日本橋に八幡商人の大店が軒を連ねていたというし、近隣の京や大坂にも多数の店舗を構えた。財力のみならず機動力、大胆さも兼備えていた商人群であった。
 




新町の町並




新町の町並 八幡堀の風景


★:2001年12月撮影(その他は2007年7月再訪問時撮影)
訪問日:2001.12.24
(2007.07.16再取材)
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