大森の郷愁風景

島根県大田市<産業町> 地図
 
町並度 8 非俗化度 1  −銀山で繁栄を極めた町も今は昔−




銀山川に沿った細長い一本道に沿って続く大森の町並




  年寄を務めた熊谷家
※現在解体修理中(2005年完成予定)

 

 大田市大森は銀山で栄えた町として名高い。鉱山としての歴史は14世紀にまで遡るとも言われ、大正時代に至るまで実に500年以上も機能していたことになる。
 江戸期には全体が幕府領となり、代官所も置かれた。銀山側に沿い細長く伸びる町は下流側を政治の中心地大森町として、上流側は20万とも言われるほどの坑夫達の住まう町として機能した。両者は画然と分たれ、幕府の統制のもと銀の持出しは厳しく監視されていた。この「山内」地区には今でも遺構を示す石垣が至ることころに残っている。谷間はますます狭く、あるものは斜面を駆け上ろうとする位置に居を構えていたことがうかがえる。また、「間歩」と呼ばれる銅の採掘の際掘られた穴が無数にあり、多くは今でも口をあけ番号が付けられている。坑夫達はこの劣悪な居住環境下で、増産を督励されていたのであろう。「龍源寺間歩」と呼ばれるものが唯一公開されており、内部は岩盤に無数のノミ跡が走り、作業の過酷さを物語っている。近くにはトロッコを使った明治時代の鉱石の精錬所跡も残る。
 現在、町並としての残るのは下流側の大森町だけである。寛政12(1800)年には町の過半数を消失する大火に襲われ、それ以後代官所は茅葺屋根から板葺あるいは瓦葺にするよう命じたという。現在残る家々はそれ以後のものである。山間の僻遠の地に位置していることから現代交通の幹線から取り残されたことから多くが手付かずで残され、昭和62年国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
 石見地方独特の光沢のある赤褐色の瓦に、漆喰塗りこめで1・2階部ともに出格子をはめた外観が一般的であるが、町並全体としての統一感はない。これは狭い土地ゆえ武家屋敷と商人町人の居住区が他とは違い区別されていなかったことも影響しているだろう。武家屋敷はわずかしか残っていないが、町家建築は多く今に語り継がれ、郷宿であった家、年寄や地役人を務めた家々が連なっている。商店、芝居小屋、茶店、旅籠、遊女屋も存在したという。
 明治に入っても一時大森県が設置されるなど政治経済の中心で、大正元(1912)年でも三千人を超える人口を有した町も、現在は500人余り。空き家も多く静まりかえっている。
 重伝建となって久しいが、家々はもちろん改築・修復され整備されているものの比較的自然体だ。団体客さえいなければ風情溢れる町並散策が出来ることだろう。町並、龍源寺間歩などを含め半日程度かけてゆっくり回りたいものだ。
 

 



※熊谷家の画像以外は2005年3月最終訪問時撮影のものです。

訪問日:2001.03.20
(2005.03.21最終取材)
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