大村の郷愁風景

長崎県大村市<武家町> 地図
 
町並度 5 非俗化度 6 −かつての武家町を伝える石垣群−




小姓小路の久原城址 小姓小路の石垣の町並。この小路が最も石垣の現存度が高い。




上小路の町並 上小路近くの楠本正隆邸




草場小路に残る五色塀 小姓小路の石垣


 大村市は長崎県の空の玄関口となっている。しかしほとんどの乗客は長崎市や島原半島、又は北側の佐世保や平戸方面に向かい、大村の町を目的に訪ねる客は少ない。しかしこの足下の町にこそ、歴史と自然のバランスの取れた魅力的な姿が展開している。
 東側には佐賀県との境界を縁取る太良山系の山並が聳え、深い緑と渓谷風景、麓地帯への豊かな水資源を提供し、穏やかな大村湾は古くから近海漁業が盛んだった。そして扇状地に開けるこの町には、大村氏による玖島城の城下町として基盤が形作られ、その後市街中心地が徐々に北上したことにより、城下地は当時の姿を比較的残す結果となり現在でも古い町並としての姿がある。大村氏(大村純忠)はわが国初のキリシタン大名となり、長崎をポルトガル貿易港としたことなどでも有名な人物だ。
 玖島城の跡は市街地の南端近く、現在大村公園として整備されている一角にある。大村湾に飛び出すような位置に天守閣が復元されているが、往時はまさに海から出入りしていたようで、当時の波止場の石垣が今でも残り、その位置に船蔵があったという。陸路より水運を政治・経済の幹線路として重視していたのだろう。波止場の位置に立ってみると、今では近くにある競艇場からのボートの走行音が聞こえてきた。
 江戸期には城の東側の丘陵地に武家地が整備された。五小路と呼ばれたそれらの町々は現在でも多くがその面影を伝える。北から草場小路・上小路・本小路・小姓小路・外浦小路と呼ばれていて、その内本小路と外浦小路には余り遺構が残っていないが、その他では濃厚である。特に武家屋敷の外郭である塀が軒並石垣で作られていたことで、風化しにくく撤去が困難であるそれらが多く残り、武家町らしい風情を今に伝えることとなった。石垣は丁寧に加工された石材が使われ、中でも草場小路などに残る五色塀は、海から運んできた様々な色の石を、漆喰で練積にしたもので、他藩の藩主もその石垣を見て美しいと称賛したという。
 小姓小路は石垣の残存率が高く見応えがある。小路は地元の方により小綺麗に整えられ、一方で石の間から雑草が少し顔を出しているのが自然体の良さを感じさせる。西側は大村線の線路に分断されているが、その先に大村氏最初の居城であった久原城の跡が残っている。その西側はすぐに大村高校の敷地となっていた。
 またこの町には長崎街道が通り、武家地の一番山側を上り下りしながら、その北端の内田川から北が宿駅地となっていた。現在そのあたりは商店街となっていて宿場町としての面影を嗅ぐことはできない。
 町家の連続する風景があるわけではない。しかしこの町を歩いていると、古い歴史に包まれているような安心感を抱くことができる。新興住宅地のような直線的、無機質の町並とは全く異種の趣だ。それは緑豊かな丘陵地帯に自然の地形を利用して武家地を拓いた、そのままの姿が現在の町の体裁に活かされているからだろう。旧武家地は、どこを歩いても深い緑に縁取られていた。
 
 
 


訪問日:2005.07.18 TOP 町並INDEX