大多喜の郷愁風景

千葉県大多喜町【城下町】 地図  
  
町並度 6 非俗化度 3
 −房総半島内陸の城下町−






久保の町並 右は重文・渡辺家




久保の町並 桜台の町並




新丁の町並(豊之鶴酒造) 新丁の町並 右は大屋旅館


 房総半島の内陸部に位置する大多喜の町。太平洋に注ぐ夷隅川の中流域にあたり、その流れにより形成された小盆地に市街地が開ける。
 徳川家康の関東入部後、本多忠勝に10万石を与えここに封じている。以後本多氏は大多喜城を拠点に城下町を建設した。曲流を繰返す夷隅川は町の防衛にも役立ち、その流れに抱かれた位置に職人町・商人町などを置いた。ある記録によると、江戸初期の慶長期に大多喜は既に1万を超える人口を有し、房総第一の賑わいを示していた。
 市街地の西に大多喜城址があり、そこから町の様子が良く見える。北から久保・桜台・新丁と街道沿いに町並が連なり、各町で直角の屈曲があるのもいかにも城下町らしい。防衛のため遠見遮断を図る目的で計画されたものだろう。桜台から新丁にかけては台地上となり、この付近は酒造をはじめとした醸造業が発達し、また周辺には旅籠も発達し花街もあったという。現在も寄棟の堂々とした母屋を見せる豊之鶴酒造が営業中で、また夷隅神社の鳥居脇には現役を続ける大家旅館が、二階の立上りの高い見応えのする外観を留め、威容を示している。
 また久保地区には、大多喜藩の御用達を勤めた嘉永2(1849)年建築の重文渡辺家をはじめ、商家や土蔵などが多く見られ、古い町並を形成している。際立った古い町並の少ない房総半島一帯にあっては随一のものであるといえよう。
 大多喜城址を中心とした観光地の一角にあり、町並を歩くと探訪者の姿が目立ち、豊之鶴酒造をはじめ多くの客の訪れのある店舗もある。建物も外来客を意識したような改修が行われているものもあるが、多くは伝統的素材を保ったものでその点は好感が持てるものである。
 町は独自に歴史的景観条例を定め、建物や広告物等への取り決めをし町並景観の保持に努めているようだ。


大多喜城の復元天守
訪問日:2016.04.30 TOP 町並INDEX