小樽の郷愁風景

北海道小樽市【港町・商業都市】 地図
 町並度 7 非俗化度 1 −沿海州・樺太への玄関としても賑った一大商業都市−
 




 小樽は札幌にも近いことから近年では観光都市としてのイメージが強く、その中心がとりわけ有名な小樽運河周辺である。しかし、俗化しすぎた観光地と馬鹿にしてはいけない。かつては運河を完全に潰す計画もあり、昭和40年代から始まった長年の市民活動の成果なのである。運河の幅は半分ほどになったが車道との遮蔽感の高い歩道の整備により親水性も高められ、水辺に古い煉瓦倉庫などの残るのは一部に過ぎないものの、港町の風情が濃く漂う風景として探訪客が絶えない。
 
 
色内三丁目の旧日本郵船(M39)




運河沿いの風景 色内一丁目の町並


 北海道の地名は周知の通りアイヌ語に由来するものがほとんどで、長万部
(オシャマンベ)・倶知安(クッチャン)・音威子府(オトイネップ)のように発音にそのまま漢字を当てたものが多くを占める。また浜中や深川など意訳した地名もそれについで多い。この小樽も、江戸期にはヲタルナイと記される寒村であり、それは砂だらけの沢という意味をしめしていた。後に小樽内、次いで小樽と改められ今に至る。道内の地名に付く文字で最も多いと思われる「ナイ(内)」とはもともとアイヌ語で全て川を表している。
 当初、先住アイヌ人を撫育しながら、漁業などの産業を特定の商人に任せる場所請負制が行われていたが、請負人であった恵比須屋の経営能力が低く問題視されていたため、幕末期には幕府が直接役所を置き諸税も緩和するなどした。これが町場化を促進することとなり、安政年間(1850年代)には既に呉服屋や旅籠屋が多数立地し、また遊里も存在したという記録がある。 
 開拓史は札幌方面の開発にこの小樽を玄関口に選び、また小樽以北を航行する船も一度ここに寄る事が多くなった。明治13年、手宮と札幌を結んだ北海道初の鉄道が開通し、さらにその二年後には産炭地であった幌内までつながったことで、小樽港の重要性は急激に高まった。現在でも当時の手宮線の線路の一部は、市街地にその姿を残す。
 以後明治18年日本郵船が設立されると増毛や焼尻島、利尻・礼文島方面への定期航路が開設、函館を凌駕するほどの重要港に発達した。さらに樺太航路も就航、港湾整備も一層進み手宮地区だけでなく現在の小樽運河付近が大規模に整えられ、運河沿いに石造倉庫群が並ぶ佇まいがこの頃現れ始めた。日本郵船は明治39年に新社屋を完成させ、現在も残り国重文となっている。その位置が運河の西側、手宮近くにあるのも当時の港の勢力分布を感じさせる。
 一方港湾の賑わいを背景に、北のウォール街と称された色内大通りには三井銀行をはじめ小樽銀行・小樽貯蓄銀行などの金融機関が集積し、商社も多数立地し近代都市としての骨格が固まっている。明治32年には既に6万人の人口を抱えていた。
 運河から一本山手にあるその色内大通りを歩くと大半の伝統的建築を見て廻ることができる。その中で、南端に近いオルゴール館や北一硝子などのある一角から鮨屋などの並ぶ堺町界隈は小規模な洋館や石造の建物が連続性を保って残り、独特の古い町並を示している。それらは木骨石造と呼ばれる、木製の軸の外側に石を積み、軸に鎹(かすがい)で留める方式で造られた特徴ある建物である。両妻部にうだつを立ち上げた石造の町家風建築も幾棟か見られる。また一部は観光施設、土産物屋として利用される。 
 観光施設巡りももちろん良い。しかしこの町は二度三度と訪ねる価値のある町であり、二度目以降は建物そのものとその展開、歴史性に眼を向けてみるとさらに奥行深い訪問となるだろう。小樽駅のそばにある三角市場を冷やかしてみるのも良かろう。
 
 




堺町の町並 堺町の町並 うだつのある石造倉庫建築が見られる




堺町の町並 日銀小樽支店(M45)付近はかつて北のウォール街と呼ばれた中心地区だ


 

訪問日:2008.01.01.03 TOP 町並INDEX