八多喜の郷愁風景

愛媛県大洲市<在郷町・川港町> 地図 
 
町並度 5 非俗化度 9  −肱川水運の川港が設けられ商業が発達−







八多喜の町並 



 宇和盆地を源に、一度山間部を曲流したのち大洲盆地に出、その後伊予灘にそそぐ肱川。盆地に滞留した川霧が伊予灘に向って流れ下る肱川あらしでも知られるところだ。
 霧の発生時に流れの只中となる位置に八多喜地区がある。この付近の肱川は大洲城下から河口の長浜港までを結ぶ舟運が盛んに行われ、八多喜は主要な川港であった。江戸前期の慶安期には既に町割りがなされ、町場が発達したという。在町として指定され商業が興り、特に楮や櫨(はぜ)などが盛んに取引された。江戸中期の宝暦年間には楮の仲買が3名あった。
 市も定期的に開かれ、日が定められ棕櫚市・蜜柑市・祇園祭市と名づけられていたという。
 明治に入ると粟津村の中心として役場が置かれた。同42年の記録では人力車6・馬車6・荷車27などとあるが依然肱川の水運が主で、50石以下の廻船が37隻とある。大正7年に後の国鉄予讃本線である愛媛鉄道が開通、八多喜駅が設置されたことで川港としての役割を終えた。
 駅の東側一帯に市街が展開しており、規模は小さいながら質的には高い町並が残されていた。平入切妻の商家・町家風の建物があちこちに見られ、古い町並を形成していた。元商店らしく一階が開放的な構造となった家々が多く、それらが皆現役だった頃は町の賑わいはどれほどのものであっただろうか。二階部分に出格子と木製欄干、更には虫籠窓をもまとった意匠を持つ旧家もあった。近代的に建て替えられているものの旅館の姿もあった。
 大洲長浜間は印象的には地味で、商業町が発達していたことは意外であった。











訪問日:2021.08.07 TOP 町並INDEX