佐賀関の郷愁風景

大分県佐賀関町【港町】 地図  <大分市>
 町並度 5 非俗化度 7 −肥後藩の管轄する重要な港津であった−



大柄な商家建築も見られる佐賀関の町並
 
 佐賀関は豊後水道に突き出した半島の先端付近に市街地が開ける。四国の佐田岬半島と向い合い海峡を形成し、三崎との間に国道フェリーが往来、幹線航路となっている。
 地図を見ても、いかにも海上交通の要衝となりそうな地形である。




上浦番所跡のあった付近 風情ある坂道が展開する 上浦地区の町並


 早くも古代・8世紀には当時「戍」と呼ばれる関所が設置され、往来する船や積荷に制限が与えられたとされている。
 江戸期の佐賀関は肥後細川氏の支配下にあった。肥後藩は77箇所の関を設けていたが、佐賀関には重要度の高い上関が置かれ、関上番所・上浦番所・下浦番所と呼ばれる3箇所の番所が置かれた。港へ出入りする船と積荷の改めを行い、海上防衛を司った。
 肥後藩主の参勤交代の折には豊後街道を東進後鶴崎の港から海路に乗り、佐賀関を経て大坂に向かうのが通例で、番所の役人は送迎にあたった。また文久4(1864)年に四国艦隊下関砲撃事件調停の幕命を受けた勝海洲、坂本龍馬等一行も、海路佐賀関に到着後徳応寺に宿泊、翌日鶴崎の本陣に泊った後豊後街道を経由し長崎に向うなど、佐賀関が海の玄関口となっていた。
 重要港としての長い歴史をいしずえに、明治以降は漁業と鉱業の町として発展した。漁業は近海遠洋ともに盛んで鰤、鯛、イカ、フグなどの漁が行われ、また豊後水道の関アジ関サバはそれを目当てに観光客も訪れるなど有名である。また大正6年に創業した精錬所は、昭和4年に日本鉱業株式会社として主に銅の精錬を行い、現在も町の基幹産業となっている。
 市街地は半島先端付近の少し幅のくびれた鞍部に展開し、北岸と南岸に港を持つ。それぞれ上浦・下浦と呼ばれていたのだろう。北岸部分の町並を歩いていると上浦番所跡と記された案内標識があった。背後には階段と石畳の敷かれた坂道があり、風情のある一角だった。
 どちらかというと古い町並らしいのは南岸(下浦)の方か。二階の立上りの高い堂々たる商家建築、路地にも妻入り平入り混在の町家風の建物が散見された。下浦は比較的漁村的性格が濃かったのか、多くの漁船が舫われていた。
 




上浦地区の町並




下浦地区の町並

 

訪問日:2018.11.24 TOP 町並INDEX