堺の郷愁風景

堺市堺区【商業都市】 地図(北旅籠町付近) 地図(西湊町付近)
町並度 4 非俗化度 6 −中世には国際貿易港として栄えた大商業都市−





北旅籠町の町並
 堺の地名は摂津・和泉・河内の三国の境目に発達した集落という意味ともいわれる。
 中世には国際貿易港として既に大変な発展を示していて、アジア各地に留まらず欧州との交易も行われていた。当時、或る宣教師が堺のことを東洋のベニスと形容したというのは有名な話である。陸上交通も、各地からの街道が扇の要のように収束していて、特に大和方面とのつながりが濃かった。町は自治的な政治体制をとっていて、濠が周囲を巡り商業都市として栄え、海の堺として陸の今井
(奈良県橿原市今井町)と並び称されていた。囲繞されたその当時の町の規模は南北約3km、東西約1kmほどであった。




九間町の町並



柳之町の町並



九間町の町並
 

 江戸時代に入ると、鎖国令によって国際港としての役割が奪われ、また大坂の発展により堺の地位は揺らいだ。しかし町の力を認めていた幕府はここを直轄地(天領)として指定し、生糸の商取引などの特権を与え商業都市としての発展が続いたが、大和川が現在の流路に付け替えられて以降、衰微の道を辿った。大量の土砂が港に堆積してしまって、商船の入港・着岸に適さなくなってしまったからである。ちなみにかつての大和川は大きく北に蛇行して淀川と合流していたとのことで、その東側を示す河内という旧国名に名残を求めることが出来る。それほどの一大土木工事であった。

 しかし町の基盤は既に完成されていたものであったので、周辺一帯で栽培が盛んだった綿花を仕入れ、織物産業が隆盛をきわめ、そのた多数の手工業も盛んで、商人の町としての位置は変らず、全国で堺商人の名を知らないものはいなかったといわれる。
 一方で元々港町だったこの町だが、その姿を回復することは遂に出来ず今に至る。その機会は幕末にあり、開国を迫られた際、大坂は京に近いという理由で堺案が有力であったが、結局神戸を国際港として開港した。堺には古墳など古代の史蹟が多く、西洋人に踏みにじられでもされては困るとの判断だったという。
 廃藩置県により堺県が成立。県域は旧和泉国・河内国、そして関連性の深かった大和国も含まれた。しかしその後の頻繁な併合などにより、結局は大阪府の一部となってしまった。現在では昼間人口の少ない、大阪のベッドタウンとして機能するに至っている。
 都市化されたとはいえ、町の広い範囲に渡って当時を思わせる古い町並が存在しているのは、せめてもの救いであろう。
 この町を訪ねるには環状線の新今宮、地下鉄の動物園前から阪堺電気軌道の小さな電車に乗るのが、風情があってよい。住吉大社をかすめて、大和川を渡ると堺の町に入る。まず高須神社前で降りて西に向うと、西旅籠町界隈に比較的まとまった古い家並がある。平入り、中二階、虫籠窓という典型的な古い町家が、連続性は低いもののある程度の密度を保ちながら残っている。堺は中世より鉄砲の生産の盛んだった土地で、かつての自治都市を思わせる。重文に指定された旧鉄砲鍛冶の家もある。
 阪堺電軌の線路が大きくカーブする辺りを横切り、さらに南に向っても所々に町家が残る。この付近、かつての紀州街道で、街道に沿って商家が連なっていた様子が想起される。先に書いたように堺は港町に集う街道の集結地で、長尾街道、竹内街道、西高野街道、熊野街道と計五本の街道が走り、また岐れていった。寺院も多い。何よりも町名が江戸期そのままの歴史を感じさせるものであるのが好ましい。旅籠町という名はぐっとくるし、材木町、櫛屋町などとあると、さながら城下町の町人地のようだ。
 沿線の南部、御陵前駅付近から南にかけて、西港町付近も古い町家が見られる。こちらは先の北部地域がやや面的に展開するのに対し、完全に一本の道筋のみに残っていて、街道集落としての姿だった。
 いずれにしても、大都市圏であるため古い町並としての密度は濃いとはいえない現状だが、特に保存されたような形跡もなく多くの町家が残るのは、古い町の範囲がいかに広く、また勢いがあったかを示しているようだった。





西湊町の町並

★は2005年1月、他は2007年1月撮影


訪問日:2005.01.02
(2007.01.03再取材)
TOP 町並INDEX