境港の郷愁風景

鳥取県境港市<港町> 地図
 町並度 5 非俗化度 8 −山陰一の商港・漁港−

境港(入船町)の町並 境港(相生町)の町並


 山陰一の水揚量を誇る境港の本格的な繁栄の歴史は美保関、米子や安来などに出入りする船を監視させるため番所が設置されたのが発端で、それ以後政治的な港津として機能した。
 
境港(入船町)の町並



境港(入船町)の町並



境港(花町)の町並


 美保関半島へ向って細長く伸びる弓ヶ浜半島は砂地であることから耕地にも向かず水にも乏しく、江戸初期頃までは全くの荒地として放置されていたという。その後乾燥に強い綿の栽培を中心に農地が開墾され、境港の開港により重要な交通路も開かれている。港の繁盛もそれに比例し、18世紀頃にはここを拠点に廻米輸送が始められ、また中国山地で産出された鉄、木綿などの特産品も続々と積出されていった。そして西廻り航路を伝って北方からはニシン、大坂からは日用品や雑貨類が陸揚げされ、さらに山陰各地に運ばれた。飯盛女なども現れ、港町としての賑わいは本格的なものになっていた。
 また境港自らも廻米輸送のための千石船を造るなど造船も行われている。
 このように山陰一の有力な港町であったため、危機意識も高く幕末の文久期には外国船の襲来に備えて御台場とよばれる砲台も設営されている。
 明治に入ると港湾としての重要性はますます増して、神戸から境港を経由し函館までの定期航路を開き物資を往来させた。また山陰から大阪・東京方面へは、物資・旅客とも境港-舞鶴の航路を経て、舞鶴から鉄道を利用するというルートがしばらくの間メインルートであった。
 境線の開通で一時の勢いは失ったが、その後現在でも国際便も発着するなど商港としての地位は揺るぎなく、また漁獲高も山陰第一を誇っている。
 このような近代的な発展を遂げている境港にも古い町並が残っている。美保関との間の境水道沿いには倉庫群や新しい商業施設などが目立つものの、その一本裏側には明治から戦前にかけての町並の息吹が感じられた。断片的ではあるが構えの大きな旧家も目立ち、有数な港町としての繁栄を感じさせる。赤瓦に彩られているのも、いかにも山陰の町らしい。
 境水道大橋のすぐ近くに境港灯台がある。明治28年に建設された山陰で最も古い灯台で、その後美保関灯台に役割を移し昭和40年に解体されたが、最近になって復元されたものである。周囲は台場公園として整備されていた。
  
       
訪問日:2005.10.24 TOP 町並INDEX