坂木宿の街道風景

長野県坂城町<宿場町> 地図 
 
町並度 5 非俗化度 8 −北国街道の宿駅 遊興の地でもあった−
 


 
旧大門町の北端辺りには伝統的な建物が連続している。(左奥)山浦家 (右)坂田家




旧新町の町並 旧大門町の春日家
 

 坂城町は長野盆地と上田盆地の中間、千曲川と山地とに挟まれた狭窄部にある。南北に城下町上田と松代、そして善光寺門前を控えて、こうした所は双方からの交通網が収斂して大動脈となる地形である。
 現在その動脈に当るのが信越本線であり、また国道18号線で、両者は付かず離れずの距離を並走し、また近年上信越自動車道が東側を横断して建設されている。
 一方、かつての動脈であった北国街道は中山道追分宿(軽井沢町)から分岐して東信地方を横断し、善光寺平から越後高田城下に出て、そこから延々越中・加賀・越前を経て再び中山道の鳥居本宿(滋賀県彦根市)に達していた街道で、畿内や江戸と北陸を結ぶ幹線道路であった。坂城は宿駅として坂木宿が置かれ、遊興の地としても栄えた殷賑極まる町であった。
 坂木宿は江戸初期の慶長期に北国街道が整備されたころから存在していたと言われ、新町と大門町を宿場として整え、またその維持繁栄のために飯盛女も許可したという。煙草や養蚕などの産業にも恵まれ、特に養蚕は松代藩が国益として奨励したこともあり、繭の仲買人、そして絹製品の生産も盛んだった。周囲には桑畑が一面に広がっていた。
 また政治的にも、越後高田藩領となっていた時期を含め、坂木藩、幕府領時代を通し一時陣屋が構えられ行政の中心ともなっていた。
 国道と駅の北側に今でも宿場町らしい雰囲気を残す。この坂木宿は、先に書いたように大門町、横町で構成され、後に新町を加えた三つの町から成っていたが、各町の境界でそれぞれ街路が直角に折れ曲り、後の国道がそれを踏襲することが出来なかったのだろう。追分方から横町、そこから北に向い大門町、そして西に折れ新町と続く。現代交通から外れたため風情が保たれている好例だ。主に古い町並は旧大門町の北側に残り、二階妻部に袖うだつを構えた旧家や、養蚕が盛んだったことを思わせる二階の越屋根を持つ邸宅などが見られる。
 明治に入ると、宿駅時代の飯盛女を引継いだ坂城遊郭が県により許可され、一時は娼鼓約60人、芸鼓20人以上を抱える大規模な遊郭であったという。ただし町並からは遊郭の面影を感じ取ることは出来なかった。昭和初期には消滅していたことと、遊郭の建築が街道筋の商家の建物のように頑丈でなかったため、早くから取壊されたためなのだろう。




旧大門町の町並 本陣の門が復元されていた

訪問日:2006.04.08 TOP 町並INDEX