酒田の郷愁風景

山形県酒田市<港町> 地図 
 町並度 5 非俗化度 6 −西回り航路と最上川水運との結節点−

 



 
日吉町一丁目にある旧料亭「相馬楼」 横路地も風情がある 
 

 

 日吉町二丁目 この建物ももと料亭 船場町一丁目の町並 
 



 
 日吉町二丁目の町並 本間家旧本邸 
 



 
山居町の山居倉庫 


 酒田は日本海側を代表する港町として知られ、城下町であった鶴岡とともに庄内地域を代表する町であり、北には鳥海山が望まれる風光にも恵まれた所である。
 中世には東禅寺城が構えられていた。天正17(1589)年、秀吉により上杉氏に庄内地域が与えられ、東禅寺城を本拠とした。城下町として町域の拡大が行われたが、関ヶ原役後の慶長6年、最上氏の来襲により町は焼失し、最上氏の臣であった志村氏が城に入った。
 この志村氏の時に現在の酒田の町割が形成されたとされる。それは東西に幅の広い大路を四筋、南北には多くの小路を従わせたもので、防火に主点を置いたものだった。最上川沿いには本町を置き諸船からの水揚げの利便性を考慮した。
 元和8(1622)年に鶴岡城を拠点とした庄内藩が成立、酒田には三町が置かれそれぞれ大庄屋、肝煎が置かれ統治した。
 以上の様な町の建設とともに、酒田が日本海側の一大港町として発展した要因は西回り航路と最上川の存在だった。本流とその支流域は大変広い後背地を持ち、米沢盆地、山形盆地、最上盆地を潤しながら各地の産物が運ばれこの酒田に集結した。品物は米をはじめ特産物として紅花、煙草などがあった。これらが上方に運び込まれ、帰り荷として木綿や衣類、塩、砂糖などが持ち込まれ、川船に積み替えられて再度内陸に運ばれ、出羽各地の商人に潤いを与えた。また蝦夷地から昆布や魚介類がもたらされた。
 酒田商人という言葉が浸透したように、廻船業や問屋業などで巨大な財を積上げた家も多かった。代表的なのが本間家だろう。商業だけではなく庄内藩が窮乏した際には財政再建にも尽力し、米沢・新庄・本荘・由利・亀田など周辺の諸藩に融資も行った。大地主としても君臨し、現在も旧本邸が厳かな構えを残している。
 一方で、酒田の町は何度にもわたり壊滅的被害を受け、それを乗り越え発展してきた。先の戦火によるもののほか、冬期の季節風をはじめ風の非常に強い地域であり、一たび火が出ると類焼し大火になることも多かった。江戸期、明暦から弘化2(1845)までに45回の大火が記録されており、また昭和51年にも市街中心の多くが消失する大火が発生している。また明治27年には庄内大地震が発生し、この際にも火災を伴い大きな被害が生じている。
 1.5km四方ほどの市街中心域のうち、町並として古い姿が見られるのは西部の日吉町、船場町といったあたりで、大火の影響を免れた地区である。港町というよりは港を背景にした飲食店、料亭が多く展開していた地区で、遊興色も濃かった。そのひとつであった「相馬楼」では今でも酒田舞娘による実演などを見ることが出来る。この辺りから南に足を向けると所々に料亭建築、造り酒屋などの町並を見ることが出来る。また、この地区の西側にある日和山公園は桜の名所として知られ、酒田を代表する寺社、旧医院の洋風建築などがある。これらの建物や町並が残っているだけでも酒田の賑わいを感じるに十分なものがあるが、火災で失われなければ更に多くの地区で伝統的建物や古い町並が見られたであろうことを思うと、その点はやはり惜しまれるところである。
 最上川沿いには酒田の象徴ともいえる山居倉庫があり、明治26年に酒田米穀取引所付属倉庫として建てられた倉庫群は港町、商業町として発展したさまを現在に伝える。裏手のケヤキ並木を配した風景もよく紹介されるが、これは倉庫の夏の昇温を防ぎ、また冬に季節風から守る目的で植えられたものである。
 


訪問日:2024.04.13 TOP 町並INDEX