出羽松山の郷愁風景

山形県松山町【城下町】 地図
 
町並度 3 非俗化度 8  −庄内藩支藩・松山藩の城下町−

 





保存される松山城の大手門と復元された土居と門


 松山町は酒田の市街地から南東に10kmほど、最上川右岸に位置し東側には丘陵が迫る。
 中世には遊佐郡平田郷と呼ばれたこの一帯は、酒井氏の命により庄内藩から松山藩が生保4(1647)年に分立した。領域は飽海郡・田川郡17ヶ村のほか、村山郡左沢に1万2千石と二箇所が与えられた。
 江戸前期には凶作などに見舞われて藩財政は芳しくなかったが、庄内藩から派遣された吏員、大商家・地主であった本間家の援助を受け、徐々に再建された。
 城下町が整備され、藩主の屋敷を中央に置き、濠を囲んで家臣の屋敷が配置された。その外側には土居が築かれ城外地とが区分されていた。外側には本町、新町、肴町など商人の町が展開した。土居の何箇所かには外部と通じる門が設けられ、そのうち大手門は現在も保存され威光を放っている。小藩ながら立派な構と言えるだろう。
 安永8(1779)年には上州桐生に五千石を加増されたことで築城が許可され、丘陵の一部を崩し谷を埋め、一部の家々を移築しながら行われた7年にわたる大工事の末、計画の一部を残し完成した。
 保存される大手門から東側が城郭だった場所で、現在公園として整備され、松山文化伝承館などの施設もある。一方西側の町並に足を向けると、まず目につくのが道路中央を貫く水路である。これは支流田沢川から水を引き、農地の灌漑そして城地の防衛も兼ねるものとして土居の外側を辿るように造られた。現在も灌漑用水として利用されているため残ったのだろうが、道路中央を流れるのは珍しく、貴重な例と言えよう。
 商家の家並は今は多くが現代風の建物に変っており、町並からは城下町時代をうかがうことは難しくなっている。しかし水路の外側にあたる西岸には、真壁の妻壁を持つ家や店舗だったであろう一階部が開放的な造りの家屋から、わずかに歴史を感じることが出来る。
 なお、庄内麩(焼麩)は藩の財政を救おうと江戸初期に始められたもので、現在も産業として定着し地区の名産となっている。
 




城郭の防御の目的で引かれた上堰




上堰の外側に見られる町並

訪問日:2024.04.13 TOP 町並INDEX