山王の郷愁風景

(注意)このページは一部に性風俗に関する内容が含まれるため、18歳未満の方または不快感を感じられる方は閲覧をご遠慮下さい。

大阪市西成区【花町】 地図
 町並度 5 非俗化度 3
 −大正時代より現在に続く歴史の古い歓楽街−
 






山王三丁目の町並 右は飛田百番の建物(登録有形文化財)
 

 西成区域の北東部にあるこの山王周辺は商業地で、西側は労働者街である通称愛隣地区に接する。北部の二丁目は商店街となっている一方で、南部は我国でも極めて特異な町が展開している。その風景を中心に、ここで紹介したい。
 この地区は表向きは料亭街であるが、実質はかつての遊郭・置屋街に通じるものがある。戦後しばらくして売春防止法が施行されても、登記上は料理屋であるため法に触れることもなくこれまで営業が続けることができている。各店には和風の店舗名を記した看板が掲げられ、内部は一見普通の民家とさほど変らないものもある。私が歩いたのは午前中であったのでほとんど開いている店はなかったが、午後以降は玄関先から客引き役が通行人に声をかけ、表に座っている女性と部屋に通され、ひと時を過すのだという。
 同時にこの一帯は戦時の空襲による大規模な焼失から逃れている。従って料亭街を構成する建物も、戦前からのものをそのまま使っている例が多い。玄関先に銅板葺の小屋根を配したもの、二階下部正面に彫刻をイメージしたモルタル製の意匠を施したものなどが見られる。そして、二階に手摺のある建物が多くを占めるのが、遊郭だった町であることを象徴付けている。中には木造のまま営業されている店もあった。
 遊郭としては大正時代に整備され、それは市街北部の曽根崎新地、中部の難波新地が相次いで明治後年に火災に見舞われ、その代替地として指定されたものである。大正7年には既に100軒を超える妓楼があったといわれ、松島とともに大阪二大遊郭として知られた。それは妓楼に置かれた娼妓が貸座敷という形で客の求めに応じる形で、その姿は現在と変わりないものであった。戦後はいわゆる赤線として公然と売春が行われていた。
 特筆すべき建物はこの歓楽街の南東部にある飛田百番であろう。鯛よし百番とも呼ばれ、大正初期の遊郭発足間もない頃に建てられたという。当時はもちろん売春が行われていたが、現在は純粋な料亭として営業される。角地にあるのでその威光を放つほどの大柄で派手な外観は非常に目立つ。内部も各地の観光地を模したものなど、当時の贅を尽くした姿が残り、豪遊気分が味わえるのだそうだ。
 他にも飛田一番をやや小型化したような重厚な建物や、洋風建築を利用した店舗など、戦前の町の風景が色濃く厳かさを感じる。 
 これもある意味古い町並である。
 






木造の旅館が挟っている 洋風建築を利用した店も見られる






飛田百番に似た建物 複数の店が入っていた 山王二丁目の町並


※この山王三丁目の歓楽街は、午後以降の営業時間帯にカメラを持って歩くことは避けたほうが無難です。また、周囲の環境を考えても、女性が歩く地域ではありません。探訪の際は充分にご留意ください。


訪問日:2007.01.03 TOP 町並INDEX