旧山陽道を辿る 余録

旧西国街道を辿る

(池田〜京都)

 山陽道の東の起終点は西宮という説が有力であるが、往時既に一大商業都市・城下町であった大坂まで足を踏みいれ、一応の完結とした。しかし西国からの参勤交代の大名は江戸が目的地、そこで西宮から京都方面に近回りの街道を多用していた。それが旧西国街道。参勤交代制度が確立してからは大名行列などの大通行が多く、宿駅も幹線街道並に発展していた。ここではその道筋を辿り、京都をもう一つの探訪の終点とした。
 ※なお、西宮から西の山陽道も西国街道と通称されていたが、この特集では山陽道という呼び方に統一しています。

■池田〜瀬川宿(箕面市)付近地図(瀬川宿付近)


猪名川 東岸はかつての池田城下町である


池田には城下町を基盤とした商業が発達した


わずかに残る旧瀬川宿の佇まい


宿駅の北外れに残る高札場跡と道標
 
 旧西国街道を辿る旅は西宮から始めたいところであったが、伊丹にかけては時間の都合と、地震の影響もありほとんど街道筋の家並には面影が残っていないと判断し、残念ながら省略した。機会があれば改めてこの区間を探訪したい。
 猪名川の東側、現在の大阪府域から探訪を開始した。池田は城下町としての古い歴史があり、以後も能勢方面からの物資の集積、酒造業などの商業も盛んに起り、今でも町並にその影を落す。
 実際の西国街道は城下を避け、現在の国道171号線の軍行橋付近で猪名川を渡り、阪急石橋駅付近に達していたらしい。
 箕面川沿いにやや遡ると瀬川の宿駅。街道筋は生活道路として今でも健在であった。しかし家並にその面影を残すものはわずかで、本陣のあった場所は自動車学校の敷地となっていた。


■瀬川宿〜郡山宿(茨木市)付近地図(郡山宿付近)


萱野の萱野三平旧邸長屋門


粟生に残る常夜灯と町並


小野原地区には道標が残る


茨木市宿川原、旧郡山宿の町並


郡山宿旧本陣
 
旧西国街道はほぼ全区間、付かず離れずの距離に国道171号線がある。しかし重複する所は少なく旧道はほぼ完璧に残っている。これは大都市圏にあって驚くべきことである。これまで辿った山陽道ではこれほど長距離に渡り残っていることはなかった。
 箕面市の東部にさしかかった旧道は、やや丘陵地帯に入り国道の南側に道筋を残す。萱野地区には立派な白壁の長屋門をはじめかつての豪農を思わせる旧家が数棟固まって残っている。中でも一帯の領主でありまた赤穂義士の一人でもあった萱野三平邸跡は府の史蹟として保存されていた。
 ここから先、北側の山腹を切開いて大規模な住宅団地が造成中で、専用のモノレールも西国街道を横切って建設中であった。完成すると人口20万人もの住宅地となる予定で、急速な都市化が進行中である。しかし逆に取れば現在はまだ開発が完全に完了していないということであり、西国街道の街路にはのどかな風景がまだまだ残っている。旧道らしく微妙なカーブを連続させ、地形のまま緩やかに上り下りする。近年の機械的な道路線形とは明らかに異なる街路風景だ。家々はやはり豪農風の塀を巡らせた屋敷型で、厳かである。
 郡山宿も国道に潰されることなく街路形態をよく残し、風情を保っている。特に椿の本陣と呼ばれる本陣の建物はほぼ完全な姿で保存され、関札や宿帳など貴重な史料が保存され貴重な遺構だ。この本陣については別途紹介の機会を設けることにする。


■郡山宿〜芥川宿(高槻市)付近地図(芥川宿付近)


耳原の町並


太田の町並 ここに一里塚があった


太田の町並


芥川 これより東側が宿駅だった


芥川宿の西入口には洪水時に備えた水門の跡が残っていた 芥川宿の町並


街路が直角に曲る位置に一里塚跡がある


一歩街道筋を外れると商店街であった。
 

 郡山宿を出ると暫くして茨木川を渡る。この辺り白井河原といい、中世ここで池田氏と茨木・伊丹両軍が激突した戦地である。両軍合せて3000騎もの騎馬が入り乱れ、この川は血で赤く染まったという。
 しかしこの辺りからの旧西国街道は、その激しい戦いも現代の慌しい都市交通とも無縁なのどかな街村風景が続いている。この耳原(みのはら)・太田地区は伝統的な虫籠窓をつけた平入りの中二階町家が所々に残り、古い町並の風情があった。多くは漆喰塗込造りの土蔵を従えている。一里塚跡も残っていた。
 次の宿場・芥川宿は西側を同名の川に限られていて、家並は堤防より低い位置に連なっている。集落の入口に残る石垣はかつての水門の跡だそうで、洪水時に板を渡して締切ることのできるようになっていた。現在は使われることはないのだろうが、こうした遺構が残っているのは貴重なことである。
 芥川宿は本陣の建物は残っていないが、郡山宿以上に古い町並としてのまとまりがあった。高槻駅にも近く、周囲はかなり開発が及んでいるのによく残っていると感心する。昔ながらの構えのまま営業を続けている提灯屋がある。町の精神的支柱だっただろう教宗寺も厳かな佇まい。銅板葺の看板を掛けた酒屋もある。街路が直角に曲る位置には一里塚があったという。但し宿駅としては意外に道幅が狭く、郡山宿よりは格下だったのだろうか。
 

■芥川宿〜山崎宿(島本町・大山崎町)
付近地図(山崎宿付近)


安満地区も歴史を感じさせる街道風景だ


梶原の町並


島本町役場近くの町並


旧山崎宿付近の町並


「從是東山城国」の石柱

 さらに街道沿いに北東に進路を取る。ここからも実に明確に旧西国街道筋が残っている。京阪地区にありながら、旧道の通る地区は全て開発の最前線からは少し外れた位置であることと、険しい獣道のような峠がなかったから、そのまま生活道路として残されているのである。
 このあたりから国道と東海道新幹線、東海道本線、阪急電鉄、さらに名神高速が極めて近距離に収斂してくる。西からには京都盆地とを分ける丘陵地帯が迫ってくるうえに、東には淀川が流れている。しかしこのような現代交通の大動脈が束になるような地でも、旧西国街道は往時の雰囲気を濃厚に残していた。とくに梶原地区には古い構えの旧家が幾つか残り、道も地形のままに曲がりくねり、古い道らしい風景である。ここは平入りの町家が連なる都市型の町並ではなく、萱野や粟生などと同じ農家型の旧宅で構成されていた。この沿線では基本的に宿駅以外は全て農村地帯で、財力のあるものが街道筋に所々居を構え、小さな町を形作っていたと思われる。
 山崎宿は、現在の島本町と京都府大山崎町の境界付近に展開していたものと思われるが余り定かでなく、しかも町並としては郡山・芥川などと異なりほとんど窺い知ることができない。付近にはサントリー山崎工場がシンボルのように見える。街道が不自然に東に折れる位置に「從是東山城国」の道標が保存されている。


■山崎宿〜東寺門前(京都市南区)
付近地図
(久世橋付近)



向日市下川原に奇跡的に残る町並

しかし数百mも進むと阪急の軌道に遮られる


久世の町並


久世橋西詰には町家の連続する一角があった


桂川と久世橋


桂川の堤防に忘れられたように残る道標 羅城門跡は九条通りのこの公園付近と比定されている
※七ちょめさん提供



羅城門跡付近に展開する古い町並
※七ちょめさん提供

九条通りに面する東寺で締めくくった

 旧山城国に入った西国街道は途端にその影を薄れさせる。京都市郊外の住宅地として面的に開発され、そのエリアを通過するためだ。府道67号線と重複する区間もある。しかし長岡京市を過ぎる辺り、小畑川を跨ぐ一文橋を渡った先に、奇跡的に残った一角があった。虫籠窓の町家、塀を巡らせた旧家。石畳調に改修された路面から、このわずかな町並を意識し大切にされているのが伝わってくる。但し、300mほど歩くと、再び交通量の多い道路に合流し、阪急電鉄の高架が迫ってくる。
 JR線を跨ぎ雑然とした住宅地を抜け、久世(京都市南区)で桂川を渡る。この河岸近くには古い町並が所々に残っていた。橋のない頃は足止めされる頃もあっただろうから、自然発生的な古くからの集落なのだろう。付近は完全に都市化されている中で、ここだけが島のように温存され続けたのだろう。川岸には「右 西国街道」などと刻まれた小さな道標が忘れ去られたように花壇の中に残されていた。
 橋を渡るといよいよ京都市街となる。西国街道の起終点は洛中への入口、「羅城門」付近に比定される。しかしその位置が現在となっては今ひとつ定かでない。九条通りから北が一般的に洛中であると考えると東寺辺りか。見ると市バスの停留所にも「羅城門」というのがあるではないか。
 しかしバス停では余りに締りがないので、東寺門前を「山陽道を辿る」のもう一つのゴールとした。
  
※旧西国街道は七ちょめさんの的確な案内により探訪しました。この場を借りてお礼申し上げます。

                                                    -完了-
(2005年9月4日取材)

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