特別企画 

旧山陽道を辿る(2)

 
6. 山中〜小郡(二里半)  付近地図
 
 山中宿から東へ向うと、割木松という地で旧長門・周防の国境に達する。ここには名の通りの街道松が、国道2号が開通した後も排気に衰えながらも近代まで残っていたというが、今は自動車専用道のバイパスができ、山口宇部道路の取付けなどで様相が様変わりしている。
 しばらく丘陵地帯が続いたがこの付近から前方の視界が大きく開ける。周防国西端の宿駅小郡は近い。
 その前に市として栄え、旅籠も置かれていた半宿・嘉川の町を通過する。
 嘉川市と呼ばれたこの町は街道沿いに約400m続き、民家が軒を連ね農業の傍ら旅人相手に小さな商売をするものが多く、商人が信仰する恵比須神を祭る祠が町の中央にあったという。
 今でも県道やJR線に分断されながらも中二階形式の旧家が散在的に残っており、街道集落らしい風景だ。

 
 
市場町・嘉川の町並は山陽道の道筋に沿い東西に細長く残っていた。
 山口道との追分に残る道標 小郡の町並(新丁付近)
 

 嘉川より小郡へ向う道筋にも風格のある古い民家が線的に残り、山陽道の存在を今に伝え残しているようだ。間もなく新幹線の長大な高架橋が現れ、それをくぐると旧小郡宿の町場へ入る。
 古くは津市と呼ばれた小郡の町は、山口へからの街道も交わるところで交通の要衝であり、商業も大きく繁栄した。現在でもそれは継承され、新幹線の駅や道路網の要となっている。
 そのような町であるため、古い町並としては残念ながらほとんど残っていない。しかし旧山陽道を物語るものは町のあちこちに立看板、標識とともに残されていた。
 旅籠が並び旅人で賑わった津市、現在は小規模な商店と住宅の混じるたたずまいだ。突当りは山口への街道が分岐していた追分で、道標が残る。それより東が新丁とよばれ、藩の御茶屋や勘場もこの辺りにあったと言われる。今の小郡町役場の付近である。
 町場はさらに現山口線の踏切を渡り東へ椹野(ふしの)川に突当たる付近まで連なっていたようで、この付近にも現代になって開発された住宅地でないような雰囲気の家並が線的に残っている。
 



  7. 小郡〜防府(四里半)  付近地図
 現山口市と防府市の境界にある長沢池。正面に見える松は街道松の名残だろうか。 大道の町並

 
 椹野川を渡るとしばらく田園地帯となる。この付近に陶市という町場があり、秋穂街道が分岐していた。
現在の防府市との境、国道2号線に沿って広がる長沢池が異彩を放つ。慶安4(1651)年に用水池として建造された人工湖だが、山陽道の往来が賑やかだった頃には街道松が繁り、旅人は疲れをひととき癒したことであろう。今ではゴルフ練習場が作られ、水面に向ってボールを打込む無粋な光景が眼につく。
 しばらく2号線に吸収されていた旧山陽道は、大道(台道)の半宿で道筋を取戻す。低い山裾に沿って自然なカーブと勾配をなして、古い家々が所々に残る静かな町だ。
 ここから山陽道は再び国道とクロスし、北側の山を小さな峠で越えると防府の町へ入っていく。



宮市の兄部家 天満宮の宮司を勤めた旧家の門
 

 当時渡しのあった佐波川を渡ると防府である。防府といえば天満宮であるが、山陽道はその門前をかすめる。町も宮市と呼ばれ、宿駅でもあったが門前町としての色が濃く、今でもその雰囲気を残している。萩からの往還もここで三田尻港に到達し、大層な賑わいだっただろう。
 町の中心にある兄部家は独特な外観を残し、見応えがある。本陣もつとめ、町の商業を取仕切った家である。その他にも門前町・宿場町として栄えた古い家々が残っているが、近年になって道路の改修なども加わり、古い町並としては歯抜けといった印象である。
 しかしそれでも、天満宮の宮司を勤めたといわれる武光家が厳かな門を残して風格を示し、街道なりに東へ向えば長い土塀に囲まれた周防国分寺、鍵曲りの位置に毛利庭園、国庁の跡である国衙跡など、古い歴史を感じさせる史蹟や風景が連続して現れる。山陽道に沿ってのんびり歩いて訪ねるに最適なコースである。
 

山陽道沿いに残る周防国衙跡


8. 防府〜富海(二里)
 付近地図  
 防府市の東部には大きな山塊が海に迫っている。浮野峠と呼ばれ、麓の浮野集落は宿駅と認められてはいなかったが、峠越えのための宿屋が幾つか存在した。
 峠といっても眼下に穏やかな瀬戸内海を見下ろす風光のよいところだったのだろう。峠道を辿ることは省略したが石畳が部分的に残り、萩焼の釉薬の原料となる長石が産出され、採掘跡も残っているという。石は馬車に積まれ萩に運ばれていった。
峠を控えた浮野の町並。常夜灯が残る。
 
富海本陣跡の門 富海では妻入り平入り混在の古い家並が残る。


 浮野峠とその東の椿峠に挟まれた富海の地は、美しい砂浜の広がる美しいところである。今では海水浴客で賑わうところだが、ここは山陽道では貴重な、海岸に接する宿場であった。国道が町の北側を迂回したために往時の街道筋は残り、今でも所々に漆喰に塗られた町家を見ることが出来る。徳山藩営の本陣が置かれていたが現在は門を残すのみである。
 今でも旅館業を営んでいる古い構えの家が数軒あったが、これは夏の海水浴客のためのものか。
 


9. 富海〜福川(二里半)
 付近地図
戸田市(へたいち)の町並 戸田市の旧家。塀を巡らせた豪華な屋敷である。



 椿峠には「従是東都濃郡 従是西佐波郡」と刻まれた郡境碑が立つ。道筋を踏襲する現在の2号線は交通量が多く、バイパスのない区間であるのでしばしば渋滞を引起す箇所だ。
 峠を下れば徳山市域(現周南市)である。次の福川宿までの間に戸田市・矢地(弥地・夜市)市の二つの町場があった。いずれもその名が示すように市が立っていたのだろう。 
 湯野温泉の入口でもある戸田市には、古い町場らしい家々が街道沿いに残っている。漆喰に塗りこまれた町家、塀に囲まれた屋敷型の旧家も見られ、街道集落らしい直線的な家並が残っていた。丘を一つ回りこんだ矢地市にもわずかであるが古い造りの建物が見られる。
矢地市の町並


10. 福川〜徳山(一里半) 
付近地図
福川の町並。古い姿はほとんど残っていない。  徳山の市街地では山陽道を物語るものは全く姿を見せない。戦災復興で全く新しい姿に生れ変っている。
 
 矢地市から国道の南側、夜市川沿いに刻まれていた旧山陽道は、やがて福川の宿場に入る。ここは旧新南陽市の西の中心で、山陽道の道筋は比較的よく残っているものの家々はほとんど更新を終え、古い家並は見られない。ここには福川本陣跡が残っているとのことだったが取り壊されたのか、または見落したか?とにかく眼に出来なかった。屈曲を持つ街路形態はそれでもやはり古い町なのだろう。
 この先、徳山までは残念ながら山陽道の面影は、遺構としてはほとんど残っていない。元和3(1617)毛利輝元の次男就隆が三万石余りの地をここに分与されて以来、城下町として栄え、今でも一番町・二番町(丁)など城下町を想起させる町名も残っているが、家並、そして道筋からは全く影が消えている。戦時に空襲の被害を受け、町は都市計画を一からやり直したからである。
 駅前の銀座通りと呼ばれるアーケード付の商店街は旧山陽道であり、その東に続く垢抜けた街路からも、歴史の道の雰囲気は感じ取れない。海岸寄りには大規模な化学工場も林立し、ここでは山陽道は忘れられた過去のものとなっているようだ。
 
  
11. 徳山〜花岡(一里二六町) 付近地図
遠石の家並 遠石の名義の由来となったといわれる「影向石」
 
 狭い平地と扇状地上に広がる徳山の町の東端近くに来ると、再び低い丘陵が迫ってくる。この辺り遠石といい、小規模ながらも宿駅として機能していた。もとは遠石八幡宮のによって町場が発達した門前町であり、それに吸引され後発的に宿屋が固まったのであろう。この付近までは戦災を受けなかったようで、袖庇をつけた妻入りの母屋が残る福原醤油をはじめとして数軒の古い町家が見られる。一階の格子も綺麗に残っている。
 一角には「影向石」が残され、案内文によると、
 『推古天皇三十年(西暦622年)の春の夜、豊前国より宇佐八幡大神が神馬に跨りこの地の磯浜に降臨された。その時神風静まりて光明とともに忽然と現れた一つの大石に降り立たれ、
 「吾は宇佐八幡大神なり、この地に跡を垂れて国民を守らんため、今ここに顕る。ああ遠し」と神託された。』
この伝説は今でも地名として受け継がれているわけである。

鳥居が出迎える花岡八幡宮の参道 花岡宿の町並
 

  徳山からしばらく山陽道は内陸を選んでいる。現在、山陽本線は柳井を通る海岸沿いを経由しているが、新幹線は玖珂などを通るこのルートを走り、国道2号も山陽道を基本的に踏襲している。この方がかなり距離が短いのである。
 国道の北西側、新幹線、そして岩徳線と交差しながら東上していく旧山陽道は、まず花岡の宿に至る。ここも町の中心に花岡八幡宮がある門前的な町であるが、古い町並としてもある程度のまとまりを見せ、一直線の街路に沿って妻入りの旧家が所々に残り落着いた風情を見せていた。
 この先、山陽道は玖珂盆地に向け山間の小さな町場、岡市・久保市・呼坂市を通過する。
 
 
(→第三回へ)

   (2004年2月15日取材)

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