特別企画 

旧山陽道を辿る(3)

 
12. 花岡〜久保〜呼坂(二里半)  付近地図
 
 今回は内陸部を辿るコースである。山陽道は海沿いを巡るイメージを抱きがちであるが、道中の多くは山間または山裾を巡り、海の見える箇所は少ない。開花した桜を随所で眺めながらの道中である。
 山陽道は岩徳線、山陽自動車道そして国道2号線と絡むように進み、県道下松田布施線と交差する辺りに岡市・久保市の二つの町場があった。
 岡市はほとんど原型をとどめていないが、その東に接して続く久保市は山陽道が明確に残り、家並からも街道集落的な匂いがする。古い町並として評価できるほどではないにせよ、漆喰に塗り回された妻入りの、格子の美しく残る町家が数棟残っている。また、鏝絵の見られるお宅もあった。
 周囲を山に囲まれた狭い盆地で、谷間にある窪地の町並であるから「窪市→久保市」と言われたとされている。 

 




久保(市)の町並。妻入りの大柄な町家が数棟残っていた。




 呼坂本陣 呼坂の町並
 

 切戸川沿いにしばらく国道に吸収されながら東進すると、低い峠を越えて熊毛郡域に入る。この辺りに峠市という地名が残っているがまとまった家並らしいものは残っていない。
 新興住宅地となった勝間を抜けると平地が開け、呼坂宿に入る。町の中央を川が流れ、田地にも恵まれ宿駅が立地するに相応しい地形である。町場としての景観は今でもしっかり残り、一本道の両側に古い家並が残る。中でも本陣だった河内家が残るのが貴重である。馬立場があった位置には吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の地としての史蹟がある。これは萩の野山獄に収容されていた松陰が、安政6(1859)年江戸送りの命が発せられ、その護送の途中この呼坂を通過した。弟子の忠三郎はこれを知り郷里の原村(現熊毛町域)より駆けつけ、この馬立場で小休止している護送団の中心で籠の中で本を読んでいる松陰を眼にし、見送ることができたという。その折に松陰と忠三郎が詠んだという歌が碑に彫られていた。
  松陰:「かりそめの 今日の別れぞ 幸なりき ものおも言はゞ 思いましなん」
  忠三郎:「よそに見て 別れ行くだに 悲しさを 言にも出でば 思いましなん」
 さすがに現在の呼坂の町並は、古い歴史の陰影は淡くなっており家並も歯抜け状になっている。しかし広い中庭を有する妻入りの旧家、土塀を巡らした家などが残り、緩い勾配とカーブを持って細長く続いていた。
 


  13. 呼坂〜高森(二里十八町)  付近地図




 今市集落、脇本陣を勤めた法王山勝覚寺。桜が見事であった。  今は車の往来もほとんどない中山峠に残る郡境碑。「従是西熊毛郡」とある。東進する身には「従是東玖珂郡」である。

 呼坂宿から旧山陽道は当分の間、国道2号線から離れて明確に街道筋が残り辿りやすい。1kmほどで今市という地に達する。藩政期は小規模ながら宿駅の機能があり、今市宿とも呼ばれていたという。脇本陣を勤めたという勝覚寺が町を見下ろしていた。
 岩徳線と近接しながら東進する。この付近、旧山陽道は1・5車線ののどかな農村部の一本道で、すれ違う車も今ではほとんどなく寂れた雰囲気だ。それだけに明確に道筋が残っているのだろう。間もなく前方に小高い山が立ち塞がり、中山峠越えとなる。道沿いの桜並木が綺麗であった。
 細道の峠には「従是西熊毛郡」と刻まれた郡境碑がはっきりと残っていた。東進する者はここを境に玖珂郡周東町。険しさはなく明るい雰囲気の峠であった。
 下りの途中に笹原を示して、「籠建場跡」としるされた立看板が、米川公民館の手で立てられていた。峠を越え高森宿へと下る途中、ここで諸大名の行列はひと時の休息をとったのだろうか。しかしむしろ高森側の方が坂がきつく、この一角には馬の瀉血場があったという。これは急坂に喘ぐ精悍な馬の粗暴を防ぐためで、3リットルから5リットルの血を抜いたのだという。生々しい話である。


高森宿の町並 高森本陣辺りの町並。当時から街路はこのように広かったという。
 

 穏やかに広がる玖珂盆地へ下ると、間もなく高森宿である。盆地を流れる島田川は水運にも利用され、米や綿、炭・薪などを河口の浅江に搬送した。その背後地に宿場が展開している。そのため商業も興り、古くから大きな町場であったことが想像できる。
 それは街路の広さからも充分判断できる。ゆったりとした2車線の道は、当時から拡幅されることなくそのままである。往時は中心に水路が走り、柳並木のある風流な街路だったという。旧街道がそのままの幅員で2車線の車道が確保されるというのは余りなかろう。しかもゆったりとした2車線である。他の多くの宿場と違い、街路は一直線で遠くまで極めて見通しがよい。開放的な街道風景である。町場は西から下市・中市・上市といった。天保9(1838)年の記録では人足40人、馬15匹。
 家並は大半が更新され古い町並らしい雰囲気は淡いが、見事な妻入りの塗屋造りの建物が所々に残っている。本陣の建物が残っていることが、この町の価値を高めている。厳かな門は本瓦を葺き、中庭の松もよく手入れされていた。
 



14. 高森〜玖珂〜御庄(二里半)
 付近地図  峠付近拡大図




 高森宿から次の宿駅・玖珂(玖珂本郷)まではわずかな距離しかない。現在では市街が連続しているようにも見える。この間の街道筋にも入母屋の立派な屋根を冠した古い醤油屋(写真)、袖壁をつけた家々など旧街道らしい佇まいが続いていた。
 小さな橋を渡り旧玖珂本郷村に差しかかる辺り、かつては千足縄手と呼ばれ往還松の並木が連なっていたという。
 玖珂の町中の街路は、高森と比べて狭く旧街道らしくなるのだが、古い町並らしきものは全くといって良いほど残っていない。わずかに町の東側の市頭と呼ばれる鍵曲り付近に、漆喰に塗り固められた豪商の家を見るだけである。これは江戸期末期に三度にわたる大火があり建物の多くが焼き払われたのと、現代になって国道は旧街道をそのまま受け継がなかったものの、町の中心であり続けたためにすっかり建替えられたためだろう。 
 このような古色蒼然とした商店が街道筋には残っている。




 
玖珂本郷の町並 次の御庄までは険しい峠道が控えている。




  呼坂宿からここまで2号線に全く融合することなくほぼ明確に街道筋が残っている。玖珂本郷から先も同様である。但しこの先は難所・欽明路峠と中峠という連続した二つの峠を越える山道となる。岩国周辺の平野部と玖珂盆地との境の山地は切れ目がなく、どこを通っても山越えとなる。
 峠付近の雰囲気を描写した記録の一つとして、建徳2(1371)年、幕府から探題に命じられた今川貞世が九州の任地に向うまで「道ゆきぶり」という紀行文をしたためているものを引用すると、
 『これより周防の境と申す、今夜は多田という山里に留まりて、朝にまた山道となりぬ。これなむ岩国山なりけり。一ふたつある柴のいほりだになく、人離れたる山中にみ山木のかげを行く。誠に岩たかく物心ぼそき道なりけり。はるばると越過ぎて、また海老坂というさとに、寺のはべりしに泊りぬ』
 
御庄の町並


 それでも少しは峠の標高を低くしようという計画が当時からあったのだろう。この地区の旧山陽道筋の下には岩徳線・山陽新幹線・国道2号線バイパス、そして山陽自動車道のトンネル計4本が潜り抜けている。玖珂盆地までは四散していた新旧の街路がここで全て収斂している。
 旧山陽道はむろんトンネルなどある訳がなく、羊腸のごとく曲がりくねりながら山腹に取付いている。何箇所か旧山陽道を示す立札がある。この車がすれ違うのがやっとの舗装路は、完全に道筋を踏襲しているわけではないだろうが、道の細さ勾配の激しさから古代からの道の雰囲気がしてくる。杉木立が覆い、昼なお薄暗い細道である。
 途中道を間違え引返す失敗があったが、その道中から見下ろす谷は深かった。中国地方は地形学的に歳をとっているというがこの岩国周辺の地形は例外的に険しい。
 峠を下ると国道2号線バイパスに一時的に吸収されるが、すぐにまた左に分岐し、柱野の町場に入る。宿駅の一つに数えられた町だが、街道沿いの家々は連続しておらず、旧家らしい家も少ない。比較的近年に大水害や大火があり、家並には多くを留めていないようであった。
 御庄川沿いにさらに北上していくと、錦川との合流点近くに御庄宿があった。これは新幹線新岩国駅の眼と鼻の先である。駅から5分も山裾に向って歩くと旧山陽道に突当たり、古めかしい家々が並んでいる。古い町並と言うほどではないが、新幹線に乗る客は、かつての大動脈がここを通っていることを知る者は少ないであろう。
 


15. 御庄〜
(岩国城下)〜関戸〜小瀬川渡し
(関戸まで一里半)
 付近地図
錦帯橋で有名な岩国城下にも山陽道が巡っていた。 橋を渡った横山地区の町並

 地図を見ていただくとわかるが、先ほどの御庄とこの錦帯橋のある岩国城下は、山を挟んで反対側であり一筋の街路としては連続しない。しかし藩政時代は城下を通る枝道が存在し、城とは反対側の川沿いを走っていたという。官庁街だった横山地区を結んでいたのが錦帯橋で、いわば大手門橋であった。延宝元(1673)年に創建された名立たる名橋である。少し寄り道してみたが、丁度桜が開花し五分から七分咲き、大変な人出であった。夏場は鵜飼、花火大会等でも賑わい、また山陽道から少し脇道に入ると町人町の風情ある町並が残り、静かな散策も楽しめる。

 
 こちらは反対側、山陽道が通っていた側の町人町の町並


関戸の町並  関戸から先の小さな峠区間には山陽道がほぼ原型のまま残っている。
 

 蛇行する錦川を互いに進んだ本道と枝道は関戸というところで合流する。ここは岩国城下から本藩である萩へ向う街道が枝分かれしており、名の由来は安芸との国境の関所が置かれていたことに由来している。江戸期に至って宿場として機能するようになったという。現在も国道2号線が迂回しているため街道筋が良く残り、古い町家風の建物が散在的に残っていた。
 ここから先、小瀬峠が控えている。さして高くはない峠ではあるが勾配は急で、現在の県道岩国大竹線が近くを走っているものの、当時の峠道は草薮に覆われ越えるのは容易ではない。所々に現れた道筋には標柱が立っていた。県道からは、立派な橋脚に支えられた高架橋とトンネルが建設中であるのが見え、錦帯橋地区から大竹方面の抜け道として通行量も多かったこの県道も一線から退くのも遠くはあるまい。
 下りきったところが小瀬集落で、幅の広い川に突当たる。対岸にわずかに残る石組は当時の渡し場の跡か。
 ここで防長路は終りで、この小瀬川を渡ると安芸の国に入る。
    (→第4回へ)
 
 

   
安芸との国境をなす小瀬川

(2004年3月28日取材)

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