特別企画 

旧山陽道を辿る(4)

 
16. 小瀬川畔〜小方〜玖波(関戸から三里)   

 小瀬(木野)川は洪水の度に流路を変え、隣国周防との境界争いが絶えなかったといわれる。そのような暴れ川でもあったのだが、当時幕府は主要街道を横切る河川に橋を架ける事を極力禁じている。治安維持上、また国境警備のためにも有効であった。奇しくもこの小瀬川は、幕末の長州征伐の第一線の戦地となり、幕府軍と激しく向き合った。この木野の渡しでは、番所は周防側にあったが、渡し守は周防・安芸国それぞれ一人が常駐し、その費用も両国が等分に負担していた。
 小瀬川を渡るとすぐに木野の集落がある。渡しの拠点であった集落、増水などのために足止めされた場合には、ここが仮宿のようにもなり旅籠もあったのではなかろうか。
 今では頑丈な堤防に守られた木野の町並は、明治時代の建築と思われる大柄な木造二階屋が多く眼につく。土蔵も数多く、その裏路地は風情ある路地風景を形作っていた。今は完全に主要道から見放された町だが、人目につかないところで幹線道路だった頃の雰囲気を残していた。(付近地図

 
 




小瀬川畔より周防側を見る 川岸に直行する街路に展開する木野の町並


 木野の渡しがある付近は海岸から随分遡った付近にある。安芸国最初の宿駅・玖波宿は海岸沿いに位置し、その間に当時は峠越えがあった。苦の坂と呼ばれたこの道筋は今では廃棄され、辿ることは出来ない。今では山陽自動車道のルートとなっており、それもトンネルで一気にこの峠下を通過する。
 峠を下ると小方地区。今では大きく埋立てられ商業施設や工場地帯となっているがここで旧山陽道は徳山以来久々に海岸に出る。この小方の町は、各国からの諸船が入津する商港であった。小瀬川流域は楮の栽培が盛んで和紙産業が大きく栄えていた。それらを積荷に大坂方面との商取引も多かったのだという。
 小方の町並は直線的に家々が連なり、一箇所街路がZ字型に折れ曲る街道集落らしいものであった。所々に平入りで袖壁を両端にあしらった特徴的な旧家が残る。中世には福島正則による亀居城の城下であったところで、その歴史は古い。
(付近地図)
木野の路地


 「苦の坂」の入口付近。すぐそばを山陽自動車道が通過している。 小方の町並


  17. 玖波〜廿日市(二里)  


古い姿を残す旧玖波宿の町並
 小方から先は山裾を迂回する道筋であるが、付近は団地が造成され風情はない。しかも覆い被さるように山陽自動車道が並行する区間もある。ここを走る車からは、旧山陽道の存在など頭にないであろう。この区間は海沿いを辿る道もあったが、橋のない小川に満潮時には遮れられることも多かったことから、多少大回りなこのルートが本筋であった。
 玖波宿への西からの経路は坂道を下ってたどり着くことになる。こうしたことも実際道筋を追ってみないとわからないものだ。こういった訪ね方をすることで訪ねる町並も、山陽道を通して線的に浮びあがって見えてくる。
 玖波宿は先に触れた長州戦争の激戦地の一つになり、その折に火の海となった。従って古い町並を残してはいるものの、これらは明治に入ってからのものである。国境に接する宿場として重要度が高く、15部屋も有していたという大規模な本陣もあった。交通の面でも東の廿日市宿、西の関戸宿へ向けて人馬が継立てられていた。町の一角に角屋釣井という、多くの旅人が喉を潤した井戸が残っており、その辺りが高札場であった。
(付近地図)


 大野町内には往時のままの石畳が残る箇所がある。左は玖波宿の東に残る「鳴川の石畳」、右は新興住宅地の一角に奇跡的に保存されている「向原の石畳」。


 旧山陽道は玖波宿を出外れると小さなトンネルをくぐって国道2号と一旦合流するが、すぐに山側に離れ海岸に張出した小さな丘を越え、その後も山裾を伝いながら続く。四十八坂と呼ばれたこの区間、今辿ってみても相当な山道で、当時の旅人は難儀したことだろう。所々で山陽自動車道が並行し、我が物顔で駆け抜ける自動車が羨ましくまた憎らしい。最も往時はこんな道が開けようとは夢にさえ思うことはなかっただろう。
 このような迂回と起伏の多かった道は現代には利用価値の低いものであったので、早い時期に街道としては廃棄されたのだろう。しかし新しい道路や鉄道は海沿いに敷かれた為、原型のまま良く残っている。地域の方の遊歩道、ウォーキングコースとして利用されていた。
 この大野町域には、西端の鳴川地区、そして今では団地の一部となっている向原地区に、当時のままの石畳が残っている。表面は苔むして、自然の一部と化しており、多くの人馬がこれを踏みしめていたころからの時の長さを示していた。
 (付近地図)
 この区間、山陽道はしばらく山裾を上り下りしながら進む。山陽自動車道と並行する所もある。





「向原の石畳」付近の旧山陽道からは宮島が見渡せる。  地道のまま残され、旧街道の風情が良く残っている区間も多い。(大野町水口)
 それにしてもこの区間、海岸沿いに快適な国道が走る時代の眼から見ると何故羊腸のごとく山裾を巻かなくてはならなかったのかと思わせる。自然のままの海岸線は山が迫っており、磯伝いを辿るのは危険であったからだろうか。
 旧街道はJR大野浦駅の北側を経て、なおも山裾を辿る。今度は山陽新幹線が並行してくる。しかしはっきりとした道筋を残す山陽道は地道のまま残されている。このような機会がない限りこの道を歩くことは決してあるまいが、いい散策路だ。
 広島城下へ向けての最後の山越えとなる四郎峠付近では県道に吸収される。峠には大野村・宮内村の村境碑が小さく残る。下り坂になるとまた山陽自動車道が寄り添ってくる。下り切ったところが旧津和野街道との追分であった。当時はここにある自然石から毎晩赤子の鳴き声が聞こえてきたそうで、そこで供養塔を建てて供養したところ、泣き声は聞こえなくなったといういわれがある。「南無阿弥陀仏」と彫られたその石塔は今でも残っていた。
 またこの辺りより宮島への参詣道として賑わった地御前街道(小さな郷愁風景「地御前の風景」参照)も分岐していた。廿日市宿は宮島の門前宿場的な役割もあり、多くの参拝客はここで宿をとった。
 (付近地図)
四郎峠に残る大野村・宮内村村境の碑


18. 廿日市〜草津
 


 旧廿日市宿の風情は30年程度前に書かれた本を読むと「古い町並」と表現されている。しかし当時は佐伯郡廿日市町、現在は市に昇格して広島都市圏の外縁部となり都市化・住宅地化が急速に進行し平野部は開発され尽くした感がある。
 現在この廿日市市街地を横断する旧山陽道を歩いても、知らなければそれと気付かない。しかしわずかではあるが中2階・または2階建の古い木造家屋が思い出したように残っている。
 ここは先に述べた津和野街道の分岐点、津和野藩主の参勤交代時に賑わいを見せ、また当藩の船屋敷も設けられていた。ここは港町でもあり、津和野特産の和紙が積出され、専用の紙蔵もあったという。また大坂から赤間が関(下関)を経由して日本海沿いの物資輸送を行っていた北前船も寄港した記録がある。
 また長州戦争の話になるが、この廿日市宿は戦渦には巻き込まれなかったものの、広島藩は長州軍に占領されるくらいならと焼き払ってしまった。その後復興したが鉄道が開通するまでの僅かな間だけであった。
 
 左にカーブすると宿駅は終り。しかしその先、桜尾地区には貴重な遺物がある。街道松である。
 街道松は徒歩の旅行者に街道の目印として幕府が督励して植えさせたもので、特にこのような市街地に残るのは特異といえよう。藩政時代からだから樹齢は少なくとも200年は超える老松である。
 背後の小高い丘は桜尾城址である。源頼朝の弟範頼の子孫が築いたといわれる城であるが、それはともかく当時はこの南麓まで入り海で、津和野藩をはじめとする諸船の船溜りだったという。今は海の匂いは全くしないが、当時はこの山裾が波に洗われていたのだろう。

 岡の下川に突当たると少し上流側に遡り、そこで川を渡り広島電鉄の踏切を渡った先にも街道松が2本残っている。完全に近代的な住宅地になっているのに、良くぞ残ったものだと思う。感嘆させられる。住民が大切に保存して来られた結果だろう。
 (付近地図・中心は廿日市宿)
廿日市宿の町並


廿日市天満宮。この正面に本陣があった。




 
 
 市街地にありながら街道松が今でも残っている。左は廿日市宿の東側の桜尾地区にある街道松。右は現広島市佐伯区楽々園に残る街道松。この他にもう一本残っている。
 

この辺りは既に広島市域であるが、しかしそれでも旧山陽道の面影は随所に残っている。
 近代的な駅前風景が展開する五日市駅の北口を横切り、八幡川を渡って井口地区に入る。
 廿日市からこの区間の山陽道が整備されたのは寛永10(1633)年頃と言われるが、その頃まだ満潮時には通行不可能になるなど街道として完全なものではなかったといわれる。今は海はかなり後退しているが今の道筋が当時の波打際を表していたのであろう。この井口地区で不自然に街路が北側を迂回しているのは、入り海があったものと推測される。
 井口には宿駅も間宿もなかったが、所々に古い町の姿を残していた。
(付近地図)
井ノ口の町並


19. 草津〜
広島城下
街道が海に接する草津の町。わずかではあるが伝統的な家々も残り、中でも小泉酒造(左の画像)は豪壮な佇まいを残している。御幸橋手前からの風景。

 
 井口の町の東端でJRの線路を横切ると草津地区。ここは厳島神社に献上する酒を醸造する小泉酒造を中心とした町並が残る。広島城下の外港といった役割を持っていたこの草津には街道集落というよりも港町としての雰囲気が濃い。街道からは小さな路地が巡り、袖壁の付いた旧家が残る。また寺院も非常に多く、当時から港を中心にして一つの文化的な中心であったところである。
 御幸橋のたもと付近まで当時は船が上っていたといわれ、献上酒は、ここから船で宮島に運ばれていったのであろう。
 ここから東も古地図によるとほぼ海に沿っている。草津の東外れの鷺森神社は平安時代に勧請された海の神様。更に東の古江地区。町の名からも海が匂う。
 この地区にいたっても、旧山陽道は明確に残り、今では生活道路としてなお車の通行が多い。
(付近地図)
 
古江の町並


街道沿いに今も営業を続ける銭湯  「別れ茶屋」の名は踏切にのみ残る。
 
 現西区己斐本町三丁目付近に「別れ茶屋」があった。今も広島電鉄の踏切にその名を見ることが出来る。草津で水揚げされた魚介類を城下に運ぶ「沖道」への分岐点、行商人の列は500人にも及んだという。城下を控えた活気の伝わってくる話だ。
 JR西広島駅前のロータリーも旧山陽道の通過していた所であった。その先少し北上して、近代になって開かれた太田川の放水路にかかる己斐橋を渡りいよいよ城下に入っていく。
 (付近地図)
 


広島城下の入口にあたる己斐橋


 バスも通る旧街道に昔の風情はない(天満町)
 天満宮の鳥居下には最近になって建てられたらしい山陽道を示す石碑が。
 


 ここから先しばらく、旧街道は一直線だ。福島町・天満町・堺町と城下の西部の町を結んでいた。さすがに周囲は住宅地・商業地、あるいは中小企業の密集するエリアであり、家並からは山陽道の雰囲気は感じられない。
 街路の一角にある天満宮にある山陽道の石碑を見ながら東へ向う。天満川を渡り雑然とした市街中心の外縁部にあたる地区が続く。平和記念公園につながる本川橋は、明治30年に木橋から鉄橋に架け替えられ、それが広島最初の鉄橋であったため名所にもなり、「本川まんぢう」という名産品まで登場し近郊から見物客も集まったという。
 (付近地図)
 
 平和記念公園付近の元安川にかかる元安橋。原爆ドームが見える。このドームも公園の緑地帯も、山陽道が現役の頃にはなかった。
 

 その本川橋を渡った辺りは、藩政時代から鉄橋に代わった明治時代、さらに大正から戦前までにかけて随一の繁華街であった。戦時に原子爆弾の爆心地に近く、根こそぎ破壊されたこの町は以後の復興にあたり、平和を祈念する緑豊かな公園へと様変わりしている。そしてその緑の中心を、旧山陽道は横切っている。
    (→次回へ)
 
 

   

(2004年5月5日・6月6・12・13日取材)

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