特別企画 

旧山陽道を辿る(6)

25. 三原〜尾道(三里)    


 三原城下を出た山陽道は糸崎の町を経て、瀬戸内海沿いとなる。これまで海岸に沿う区間は下関付近と防府の富海宿付近、大竹の玖波宿付近のみで、山陽道が意外にも山手に進路を取っていたことを改めて感じる。
 ここから尾道付近までは国道2号と山陽本線が並行し、山が海に迫る。当時は波打際を辿る区間だったのだろう。(付近地図

 山陽道沿線より海を望める区間は少ない。遠くに因島大橋が見える。




 千光寺山の中腹から尾道水道、向島方面を見る。山陽道は眼下の海に近いところを通過していた。  独特の路地風景
 

 今でも多くの観光客がある尾道の町。その醍醐味は寺社と路地巡りに代表される。この町の歴史は遠く聖徳太子の時代にまで遡るといわれるほどで、当時より数多くの寺が建立された。また中世には内陸部の荘園から年貢米がこの地に積出される、いわゆる「倉敷地」ともなった。
(※注:岡山県倉敷はそのまま地名になった珍しい例)
 近世には石見・大森で産出される銀鉱石の積出し港としても重要な役割を占めていて、港町尾道は常に隆盛の中にあった。
 ここでの山陽道は残念ながら商店街に吸収される。当時は寺社群と港を横に見ながらの風情ある道程だったと思われるが、アーケードに覆われたこの区間からは見えるはずもない。しかしさすがは尾道というべきか、所々重々しい薬医門が商店の切れ目から顔を覗かせていたり、塗屋造りの古い構えの商店があったりと、どこにでもある普通の商店街とは一味違う。
 寺群は現在のJRの線路より北に限定されていて、南側は一転平坦な市街地となっている。山陽道は当時の海岸線を表しているのだろうか。


 東西約1kmにわたって続く商店街が旧山陽道。それでも古い建物が主張している。




 
 アーケードを外れた辺りの町並 訪問当日は偶然にも祭の最中であった。



  26. 尾道〜今津(二里)  



 山陽道は長江口で出雲街道を分ち、浄土寺の手前の防地口でほぼ直角に折れ北に向う。これより東側の海沿いは険しかったのか、防地峠という山越え道となる。途中所々に小さな祠や地蔵を見ながら、細い坂を登りきると二つの石碑が眼につく。
 「従是(これより)西 藝州領」 「従是東 福山領」。ここは広島藩と福山藩の統治上の境界だった。峠の左右にそれぞれ番所が設けられていたという。
 ここからは一転下り坂。国道2号の尾道バイパスや住宅団地などでほとんど面影はない。下りきったところが今津の宿場である。
(付近地図)
 防地峠に残る藩境碑。左「従是西 藝州領」 右「従是東 福山領」


二つの藩境碑近くのこの辺りに関所があった。 今津の町並



今津宿 脇本陣を務めた蓮華寺


 
本陣跡の門
 

 今津に宿駅が設けられたのは江戸初期の慶長7(1602)年頃といわれ、現在でも山陽本線や国道が南に外れたことから道筋がよく残る。山裾に沿い緩やかに街路がカーブしていて見通しが利かない自然の「遠見遮断」が図られている。
 かつては沼隈郡今津村という独立した自治体であったがその後松永市、そして福山市へと編入された。しかしこの道筋には一つの町の中心といった雰囲気を残している。
 本陣の建物は残っていないが門が残る。この本陣の中庭には牡丹の花が一面に咲き誇っていたそうで、「花の本陣」と呼ばれよく知られていたそうである。脇本陣は少し西側の蓮華寺が務めていた。
 江戸期には町の南側の松永地区に、福山藩の本庄重政が塩田として大きく栄え、今津はそれによる富を享受した。今津の家に嫁をやることが当時の庶民の憧れであったという逸話もある。
 繁栄していただろう今津の往還は、今では裏道となり人の往来も少ない。家並には旧街道らしい雰囲気の土蔵や町家建築が所々に見られるが、古い町並というほどにはまとまっていなかった。
 
(付近地図)
  



27. 今津〜神辺(四里)
 




 
赤坂の町並
 今津の町並の東側は本郷川で限られ、その後は国道2号に時折吸収されながらそれよりやや山手をゆく。赤坂付近からは旧道がよく残りほぼ真っ直ぐな一本道となって芦田川まで達している。赤坂も往時のを残しているとはいいにくいが、あちこちに常夜灯や石碑が残っているのがこの区間の特徴だ。 (付近地図
 赤坂付近には常夜灯が旧道沿いに残り、雰囲気を高めてくれる。金毘羅大権現をまつったものという。金毘羅は海の神様、海に近いことを象徴しているようだ。


 
 
芦田川に出る。当時はこの高い堤防はもちろんなかったろう。  石州街道追分付近は栄えていたようだ。今でも少し古い町並が残っている(中津原)。


   
 芦田川は山陽道が現役の頃は例によって橋はなく舟による渡しが往来していた。備後地方を代表する川はこの下流部までくるとかなりの川幅があり、夜間は西岸の「帰帆燈籠」に灯りがともり渡船の目印にしていたほどだという。現在は堤防上の道路は車が途切れることがなく、また河川敷も整備されて往時の面影は全くなくなってしまった。
 舟は対岸の旧深安郡中津原村に達していた。芦田川と支流の高屋川に挟まれた低湿地帯で、高い堤防下に広がる町。所々に備後独特の海鼠壁を多用した民家が残っている。高札場も設けられていたとのことだから古い集落なのであろう。
 約500mで高屋川に突当たったところが現在の鶴が橋である。ここにも当時は橋がなかった。鶴が橋のやや上流側に渡しが通っていたという。この付近は渋滞の名所であるが、それもわかる気がする。かつてよりここは交通の要の地で、山陽道から福山城下に至る街道と山陰へ向う石州街道(出雲道)とが分岐していた所で、現在もそれが踏襲されているからである。
 渡しの手前、北岸で石州街道を分ち、南岸の横尾で城下への街道を分岐させていた。双方に古い町並を残しているが、特に横尾側には町家が連続した風景がある。この追分付近を中心に商店が建ち並び、旅人が一息入れたというが、ここも今では車が数珠繋ぎに往来するだけだ。
 当時は横尾側は「茶屋」中津原側は「新茶屋」とも呼ばれていたという。
 橋の袂、福塩線の踏切の所に「出雲大社道」と刻まれた新旧二本の道標が立っているのがわずかに旧道の面影を感じさせる。 
(付近地図)
「出雲大社道」の道標


横尾の町並




神辺本陣(西の本陣)の長屋門  川北には街道集落らしい落着いた町並が残っていた。
 
  横尾で山陽道は再び東へ進路を取る。次の宿場・神辺はもう近い。付近は福山市の近郊住宅地であり、旧道の道筋とその面影はあるか無きかに淡い。しかし神辺駅前を過ぎ、川南地区の細い街路に入ると、再び残照を当てたように色濃くなってくる。車の往来が多い通りの所々に町家がちらほら見え出すと、「枡形」という直角の曲折を経て川北地区。
 神辺宿は備後地方最東端の宿駅で、すぐ東は現在の岡山県・備中国である。国境の宿場だったからでもあるのだろうか、神辺は随分栄えたらしく備前東端の三石宿から備後の西端近い尾道までの間で参勤交代時の止宿率が最も高かったといわれる。そのためか山陽道では珍しく本陣が二つもあった。西の本陣・東の本陣と言われたらしいが、現在その内西の本陣がほとんど原型のまま残されている。本瓦を重々しく葺いた長屋門、内部は基本的に非公開だが筑前黒田藩の関札(今で言う、歓迎 ○○様といった標識にあたる)など多くの遺品が残されている。
 この本陣辺りを中心にして古い町並が残る。距離にして赤間関から東へ300km、家々の雰囲気も周防から安芸に入る辺りで一度大きく変り、またこの備後地区でも小変化があるようだ。海鼠壁の多用である。2階正面部にも貼り瓦の上に海鼠壁。重厚さと可憐さを併せ持っている。これから備中・備前にかけてはこの意匠が町家の標準となる。
 この神辺は旧山陽道沿線の中でも、古い町並として雰囲気がよく残っている貴重な町である。 (付近地図)
 

 (→次回へ)




川北の町並  天明元(1781)年に開かれた私塾「廉塾」。人の集まるところ、文化の発信基地でもあった。

   

(2004年11月3日取材)

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