特別企画 

旧山陽道を辿る(7)

28. 神辺〜高屋〜七日市(二里二四丁)    


 
備中最西端の宿駅・高屋の町並


 備後国最東端の宿駅・神辺を出た山陽道は国道313号線に吸収されながら東進する。約一里半で備中最初の宿場・高屋である。
 高屋宿は江戸も後期になると、それまで尾道港に運ばれ船で積出されていた石見の銀が、この辺りを通過するようになり、それらの往来で大層賑っていたという。
 また、綿織物も盛んで幕末から明治にかけては大商家が多く生れた。今でもそれらの一部が旧街道沿いに残っている。一角に残る洋風建築は銀行だったのだろうか、または病院か。今は使われていないようだったがこのような建築物が残っているということは、当時は近隣地域の中心であったことを示している。
 宿駅の範囲は高屋川で限られ、現在でもここで家並が途切れる。そのまましばらく進むと、国道313号線を横切り、出部(いずえ)地区に入る。山陽道は生活道路として明確に残っていて、その所々に古い町家建築が見られた。道幅も当時のままの狭さであるところに現実感がある。さすがに高屋宿よりは半分程度の街路幅しかないが、この出部地区も小規模ながら宿泊施設がある「半宿」であった。井原鉄道の線路のすぐ北側、現在は心地よい散歩道といった風情だ。

 付近地図 
 
 直進を続けるとすっかり近代化された井原の市街地。織物業などで古くから栄えたのは北に1kmほど離れた地区で、山陽道からは離れていた。
 川は当時一種の関所のような役割をした。あえて架橋をせずに渡河手段は渡し船のみで両岸に番人を置く場合もあった。また川の増水は旅人を足止めさせ、宿場が発達することが多かった。
現在の井原市街地の東を流れる小田川の場合も同様だった。川にぶつかる位置に七日市という宿駅があり、最盛期には本陣・脇本陣、旅籠屋を含め80軒余りの宿泊施設のある大宿場であった。名の通り古くから市が立っていたところで、繁栄を極めていたという。しかし現在では本陣跡は広々とした駐車場に、周辺も古い町家は全くの歯抜け状態になっていて、町の姿からかつての宿場を想像するのは困難である。
 
 付近地図


出部(いずえ)地区の町並

 七日市の町並。大規模な宿駅だったが残念ながら町並としてはほとんど残っていない。



  29. 七日市〜矢掛(三里)  

 旧七日市宿を抜けるとすぐ小田川岸に出る。今は頑丈な護岸が築かれているがこの辺りが「七日市渡し」のあったところだ。今では堤防上の小さな石碑がその存在を物語るだけである。
 昔の文書によると、水深が浅いので渡しは原則人足によったとされ『板を流れの上にのみ二枚架設し、以て通行に供す。川水漲る時は之を撤去す。此に際会し、先触通行者に対しては七日市駅丁男出役して或は背に負ひ、或は欄檻を施せる枠台を急ぎ、之に人体・駕籠・荷物等を載せて渡渉せり』(岡山県後月郡誌)
 なお、幕末には木橋が架けられている。
 
 小田川。この辺りから「七日市渡し」が往来していた。


小田川を渡った本新町の町並 今市の町並


今市は本陣も存在した間宿だった。

 
間宿・小田の町並


 橋を渡ると旧街道は再び明確になり、古い町家も七日市より密度濃く残る。この本新町・東新町一帯は幕末近くなって陣屋代官によって新しく取り立てられた町場。宿駅でも半宿でもなかったようだが小田川を控えた小休止の場といったところか。
 その東に続いて間宿だった今市があった。一橋藩による問屋町が築かれていたところで、本陣も設置され、小田川が足止めされたときの仮宿としても機能していたことが想像される。入母屋造りの豪華な屋敷が幾つか見え、七日市よりも断然古い町並としての体裁が保たれていた。「筑紫紀行」では『今市村 人家百軒余り、茶屋宿屋あれど間の宿なり』と書かれる。
 この辺り、随所で街道が枡形になっていて往時のままの道路線形であることがわかる。
 小田川の流れが近づくと旧山陽道は国道に吸収され、しばらくして矢掛町小田地区。ここも堀越宿という間宿があった。西の今市宿、東の矢掛宿とも程近く、往来の必要性よりも古くからの集落が街道に沿い、宿泊業も兼ねるようになっていったのか。古代の駅家が置かれていた古い集落で、このあたりは小田郡であり、川の名も小田川、明治初頭には廃藩置県により一時小田県があった。妻入りの町家が所々に残り、街道集落らしさを保っている。
 
 付近地図



30. 矢掛〜川辺(三里)
 




矢掛宿の町並。家並は妻入りが目立つ。

 矢掛は本陣と脇本陣の建物が共に残っていることでガイドブックなどにも紹介されることが多く、訪れる人も多い。町のすぐ南を流れる小田川は高瀬舟による物資の輸送が盛んで、水陸交通の要地として栄えたこともこの町の賑わいを確定的なものにしていた。
 本陣石井家は主に酒造業を営み、年寄職を長年勤めた名家で、その敷地の奥行は深く小田川沿いの国道にまで達している。当時は裏手が直接川岸に面していて、物資の積出し等も行われていたのだろう。この町は山陽道、そして小田川の往来とともに栄えた。 


付近地図
 旧本陣・石井家


 
 
山陽道と玉島道の追分を示す道標。「左大坂道」とある。 井原鉄道の高架を見ながら田園地帯を行く。


   
 
 矢掛の宿を出外れて、国道沿いに進んでいくと道端に見落しそうなものだが道標がある。「左大坂道」「右玉島道」とある。山陽道はここから現在の国道より山手に分れるが、そのまま直進すると往時の玉島道である。玉島は大きな港町で、備中一円の産物や年貢米などが集積し積出されていた。物流は玉島を要に行われていたといってよい。
 ここからしばらく田園の中の一本道となる。間もなく山陽道探訪に似つかわしくない高架橋が左手から接近し、やがて交差する。福塩線の神辺と総社を結ぶ井原鉄道である。この鉄道は山陽道の道筋にある程度一致しており、上手く利用すれば列車での山陽道巡りも可能である。 
 山裾の道になるとしばらくして国道に吸収され、間もなく真備町域に入る。この町では山陽道よりも吉備真備伝説のほうが有名であり、ここでは本題からそれるので詳述は避けるが、吉備神社、吉備家の館跡、真備の琴弾岩、吉備大神の墓など無数の史蹟がある。    付近地図
真備町箭田の町並




旧川辺宿の町並  川辺宿に面影は淡かった。一里塚跡の石碑も堤防下に忘れられたように残る。
 
  次の宿場・川辺は名の示す通り高梁川にぶつかる位置に開けたところ。先の七日市宿と同様、川が一つの関所的な役割をしていたようだ。川止めになったときは矢掛宿などより多数の宿屋が必要になったはずである。
 旧道は国道313号線の川辺橋に向う新しい道路から南側にわかれ、そのまま直進し宿駅に入る。 
 明治26年10月、長雨で高梁川の堤防が決壊し、この集落を飲込んで87名が死亡した。屋根の上に乗って玉島や四国沖の与島付近まで流された者もいたというほどの大洪水だった。大正期になって堤防が整備され、川辺橋が出来て、この川辺宿の存在意義も全く無くなった。
 伝統的な町家建築がほとんど残っていないのはそのためだろう。宿場らしく街路幅は広いが、それが寒々しい雰囲気を漂わせるほど往時の面影は薄かった。「川辺本陣跡」の標柱などが残るが実在しないものばかりである。  
 
 
 


31. 川辺〜板倉(三里)



 高梁川は岡山県三大河川の一つで、『中国行程記』によると、「この川辺川(高梁川)、地水(平時の流水)には川三筋にて三ヶ所共に船渡り、大水には一筋となる。その時は船渡し止まる、川幅二百間(360m)あり、地水西川二十五間、中川二十間、東川十五間、時々三筋共川幅違いこれあり」と記録されていて、難所中の難所であった。明治の頃には三筋の流れにそれぞれ板橋をつけ、旅人から通行料を取っていたという。
 渡りきった東岸は清音村中島地区。中世には川渡しの宿屋があったそうだが以後は川辺宿に一切を委ねていた。となると西へ下る旅人はこの川で足止めされた際、どこへ仮泊していたのだろうか。ここから小さな峠を越えた先に宿という集落があるが、とても大名の御一行などを受け入れる規模ではなかったろう。となると更に東の板倉宿か。または吉備津神社の門前か。

高梁川。かつては川筋が三筋もあって三度も渡し船を乗り継がなくてはならなかった。  




 
宿付近からは当時の山陽道からもこのように五重塔が見えたのだろう。 山手村宿集落の町並


 「吉備路」と呼ばれる地区はこのあたりからである。小山を越え山手村に入ると「旧山陽道」の小さな案内板が国道沿いに立ち、南側の山裾を巻いて平坦地に下りる。散在する家々の佇まいも、そのような目で見るからかどことなくのどかで優雅である。この区間、国道からそれた一本道として明確に旧山陽道が残り、徒歩や自転車でのんびり巡ってみたい気分にさせてくれる。今回はこの吉備路に入り、備中国の東端、吉備津にある旧板倉宿までを訪ねたい。
 古代の史蹟、造山古墳、こうもり塚古墳など著名な古墳や、五重の塔がシンボルの備中国分寺跡なども旧道の沿線上にある。この五重塔は実は文政4(1821)年に建立されたものなので、幕末近くになりようやく山陽道の旅人の道標として重宝されてきた。国分寺跡に向う小路には、「国分寺詣道」などの石碑が生々しく残っていた。この付近、宿という。『正保郷帳』では西の西郡村に触れた後、「半里計行けば宿町、人家五十軒、茶屋あり」と記している。
 現在は人通りもほとんどないひっそりとした集落。街道は造り酒屋や古めかしい家屋が数軒街道に接している。道幅が狭いままなので名の割には宿駅機能は小さかったのだろう。何となく家々が格調高いように見えるのは、やはり国分寺の門前だからだろうか。
 
 付近地図
 

文化3(1806)に建てられた国分寺への道標
板倉宿。「旧山陽道板倉宿」の看板が見える。 板倉の町並

 宿から板倉宿まではもう近い。旧街道は小高い丘の北裾を回り、造山古墳を左に見て広々とした田園地帯に出る。この間もずっと明確な一本道だ。
 岡山城下が目前に迫る板倉宿では、大名行列のほとんどが旅装を解いたそうである。城下に宿泊するのは避けたかったし、川辺宿との間がやや開いていたからであろう。『中国行程記』では「庭瀬領板倉村、茶店あり、遊女多し」と記される。
 国道180号線と交差する辺りから徐々に古い町家建築が見られ、宿地の雰囲気が増してくるが、古い町並というほどのまとまりは無い。しかし当時は大層な繁栄ぶりだったようで、それはここが備中松山城下及び足守陣屋町に向う街道と、南下して庭瀬陣屋町へ至る道とが交差する交通上の枢要地であったからでもあろう。国道180号線の「板倉交差点」には復元された2m近くもある道標が立っていた。
 それにすぐ南には宮内という吉備津神社門前の一大歓楽街があった。もともとこの板倉宿も宮内村にあった本陣を寛文期(17世紀後半)に板倉に移したことから宿駅化されたとされる。以後も西国屈指の歓楽地であった宮内に一部の旅人が流れていったのだろうが、泊り客の絶対数が多く、宿泊地としては両立していたのだろう。
 山陽道はこの板倉宿を出外れたところで備前国に入り、いよいよ岡山城下へと向っていく。

 付近地図
 

                                                            (→次回へ)
   
(2005年1月30日取材)

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