特別企画 

旧山陽道を辿る(8)

31. 板倉〜岡山城下(二里二十丁)    


 
山陽道から吉備津門前に通じる松並木 吉備津宮内にある宇賀神社。躑躅が見事であった。


 板倉宿は吉備津神社の門前町といってもよいようなところであった。宿の東端をしばらく行くと、国道180号線を挟んだ向かい側に松並木が厳かに連なって神社前に達している。この辺りが宮内という一大歓楽地で、かつては金毘羅宮(香川県琴平町)、宮島などと組合せ遊興の旅のメインルートに位置づけられていた。この前後の山陽道もそれらの参詣、遊山客の往来が多くを占めていたことだろう。
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 この周辺は吉備路の中心である。右手に小高い吉備中山を望みながら、吉備津彦神社への参道が見えてくる。吉備津彦とその一族を祀るこの神社にも古くから小さな門前町が作られ、山陽道もその参詣路の一部であった。まことにこの辺り、山陽道は参詣道としての役割も濃かったようだ。
 


 

岡山城下の西を限っていた万町は現在では一部が鉄道
用地として姿を消している。
路面電車やバスの往来するこの交差点も旧山陽道。


 この先山陽道は国道180号線に吸収されながら山裾を小さな峠で越える。現在は大学をはじめ各種学校が多数立地する文教地区である。次第に市街地の様相を示してきた。岡山市の中心部に入ってきたのである。岡山駅構内の東を高架橋で越えた反対側で車を止め、折畳自転車に乗換える。
 歩行者自転車専用の地下道が構内を横切っている辺りが山陽道の道筋で、その出口に小さな石碑があった。この辺り旧万町といい、城下の西の入口であった。旅籠の経営が許され、現在の岡山駅表口付近には惣門があったという。
 そこから先は何度か直角に折れながら城下町の街路を南東に向う。旭川にかかる京橋までは完全な市街地で、旧山陽道を示す標識すらない。道筋には駅前のメインストリート桃太郎大通りや、市内随一の商業地区で人々の雑踏する、表町の天満屋百貨店のすぐそばの商店街も含まれる。面影はもちろん全く残っていない。もとは上ノ町、中ノ町、下ノ町、栄町、紙屋町といった城下町らしい町名だったのだが、それらの地名ももうここを往来する人々の記憶にはないだろう。

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 天満屋付近を南北に貫く表町商店街も元は山陽道だった。



  32. 岡山城下〜藤井(二里)  

 旭川にかかる京橋は城下の東口であった。かつてはこの西詰に大門があり城下とを隔てていた。橋のたもとには明治元年に設置された岡山県の道路元標が残っている。
 この京橋を舞台にした興味深い記録が残っている。世界で初めて空を飛んだとされる「鳥人」幸吉の逸話である。備前八浜(現在の玉野市八浜)出身の幸吉は表具師であったが、空を飛びたいとの野望を押えきれず、この橋の下から吹き上げてくる風に注目し、紙飛行機などを飛ばしたりして綿密に調査していたが、天明5(1785)年の夏に自作の翼を携えてきた幸吉は、夕涼みの人々の群がる河原に向って飛立ったのだそうである。すぐに城下の侍たちに取り押さえられたが、鳥人幸吉の名は各地に広がり、その後駿河(静岡)で「備前屋幸吉」の名で木綿を商い、たいそうな繁盛振りだったという。
 現在、この橋は路面電車も行き交い、対岸の家並もやや古びた趣のある川辺の風景である。
 
 城下の東を限っていた旭川を渡る京橋。その向いは旅籠街であった。


京橋西詰に残る岡山県道路元標 小橋町の町並
 

 京橋の東側は旭川の中洲となっている。ここは城下から外れた位置にあったこともあり、旅籠や遊興施設が入り乱れる歓楽街であった。山陽道の通行だけでなく旭川を往来する高瀬船や商船の乗組員も立寄り、遊郭も数多く存在したという。その殷賑は戦後しばらくまで続いていた。
 二つの中洲を渡ると山陽道は北東に向きを変える。ここからしばらく、少なくとも次の藤井宿の先までかなり長い区間山陽道は明確に生活道路として生きている。市街中心部に含まれる一帯だが、道筋の所々に伝統的な町家が散見されだした。久々に旧街道らしい雰囲気を味わうことができる。
 原尾島という辺りで百間川を渡る。この川は岡山城築城までは旭川の本流で、城主宇喜多氏は城のすぐそばまでこの流れを引寄せ自然の外堀とし、さらにその時に出た土砂で城の土台とし、堅固な城を築いたのである。
 しばらく住宅地の中の取り止めもない一本道となるが、現在の東岡山駅近くに位置する小さな郵便局のある四つ角に道標が残っている。南北に向っては「長岡駅 西大寺観音道」、東西に向っては「岡山玉島 神戸大坂京道」と彫られている。明治38年に建てられたというから山陽道の街道としての役割も終焉の頃である。「吉備温故秘録」によれば「追分の茶屋、北側は関村、南側は勅旨村となり、邑久郡へ行分れ道なるによって分れの茶屋といひしを、正徳元年十月八日より、追分の茶屋と改名」とある。旧道の交わる十字路、ここに小さな茶屋があり、人々が一時の休息をとっていたのだろう。
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明治期に設置された道標が残っている。

 
藤井宿に残る本陣跡の土塀
 旧山陽道は東岡山駅の東で線路を横切り、間もなく藤井宿に入る。都市郊外の雰囲気がここに来て薄らぎ、街路も曲がりくねって田舎道の風情となる。しかし連なる家々は隣同士にゆとりのある屋敷風の構えで、建屋も伝統的な造りだ。町の西端にスサノオ神社があり、そのすぐ東側に土塀が連なる遺構が見える。現在は新幹線と山陽本線、国道に全く株を奪われその存在すらも忘れられているが、かつては本陣が二軒もあって、繁盛した宿場であったという。この土塀はその内「西の本陣」のあったところだ。
今でも車のすれ違いは出来るほどの幅はあるものの、江戸期はこれが唯一の幹線道路、陸の輸送手段であったのだから、全く隔世の感がある。

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藤井宿の町並



33. 藤井〜片上(四里)
 




 藤井宿を外れた旧山陽道はしばらくの間、丘陵の入り乱れる田園地帯を東進する。実際機能していた頃とさして風景は変っていないと思わせるような所だが、次第に新幹線の高架が近づいてくる。
 高架の下をくぐり、山陽本線と国道を横切り旧道は一旦その向こうの山裾を巻いている。しかしその付近は郊外の住宅団地が出来ていて道順を辿るのは不可能であった。
 この辺りは旧上道郡である。吉井川のほとりに一日市(ひといち)という宿駅があった。


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岡山市楢原付近



 
 吉井川の川止時には溢れんばかりの宿泊客があった一日市宿付近にかつての面影はなかった。 今に残る常夜燈。右は吉井川の堤防上に建設された国道2号線。


 
  
 一日市宿は大河吉井川のほとりに設けられていた。物資輸送に重要な役割を果たした河川だったが、陸上交通にとっては障害以外の何者でもなく、増水時にはしばしば足止を喰らった。
「年に一度市が立つ」という意味を込めて名付けられたというこの宿場だが一年に一度どころか川止めの度に通行人が溢れた。弦の音が響き、酔客や女の矯正などが木霊していたという。
 しかし現在の町にはそんな雰囲気を窺い知ることは全く出来ない。古い家並はおろか、家々自体がまばらで町並をなしていない。
 吉井川は明治9年に有料の橋が架けられるまでは渡し舟に頼っていたが、今はもちろん国道2号線は立派な備前大橋で渡る。渡った先は旧福岡村といった。中心集落は山陽道とは少しばかり外れるが、優れた備前鍛冶職人が有名で隣の長船村とあわせ全国にその名を轟かせていた。福岡は中世からの商業都市で、筑前黒田氏が城を築いた際、祖先発祥の地であるこの地名を取って「福岡城」と名付けたといわれる。今でもかつての豪商らしい入母屋造りの旧家が多く残る町並だ。
 しばらくは国道2号線の中に消え、吉井川の左岸を北上する。ドライブインなども見える取り止めのないところである。新幹線の高架が近づくと、旧山陽道は枝道にその姿を再び現す。高架をくぐると香登の町である。
 香登は中世には山城が存在していたという所で、また古くから吉井川の舟運や陸上輸送の要地となっていたこともあり町場としての歴史は深い。山陽道の間宿として旅籠もあったようだ。
 町の西を流れる小川のほとりには大きな石造の常夜燈が残されている。町並も醤油醸造を代々続ける伝統的な構えの旧家など、古い町並が残っている。現在では生活道路だが、昭和30年代まではバスも通る幹線道路だった。
 町の東、大内神社の境内には街路に面して一里塚もほぼ原型のまま保存されていた。
 徐々に家並は途切れがちになるが、やがて右手に大きな池が見えてくる。新幹線の車窓からもよく見えるのでご存知の方も多いだろう。その名も大ヶ池、平安時代末期の古文書にも名が見られるというから山陽道の旅行者はこの池を目印にしていたに違いない。
 このあたりから徐々に備前焼窯元の煉瓦煙突が目立ってくる。ここは既に備前市域、備前焼の中心・伊部は眼と鼻の先である。
 付近地図
山陽道筋に程近い福岡の町並。歴史は中世まで遡り、江戸期には川運、陸運の利を得て大発展した商業町だった。


   
間宿としての役割もあった香登の町並


香登に残る一里塚跡




新幹線の車窓からもよく見える大ヶ池。平安末期からこの一帯を灌漑し続けてきた。山陽道は池の左畔を通っていた。 登り窯のある風景が印象的な伊部に差掛かる。
 中世の初頭には既に登場していたという歴史の古いこの備前焼は現在でも釉(うわぐすり)を使わない独特の風合いと美しさ、その丈夫さで根強い人気を誇っている。当初は登り窯に使う薪が自給しやすい北側の山裾一帯で焼かれていたが、山陽道の往来が盛んになると街路沿いに店舗を構えていった。街中にあると煤煙などの公害を引起す登り窯が街道筋の市街地にいまでも健在なのは古くからの地元住民の理解あってのことだろう。
 『中国行程記』にも「備前焼物店此処に多シ」と記録され、山陽道を往来する旅人も多くがここで足を止め、参勤交代の大名たちも品定めをしていたに違いない。

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 伊部では備前焼の店舗が一部に伝統的なスタイルを残したまま営業され、観光客で賑う。


34. 片上〜三石(三里)



 伊部から片上に向う道は、江戸に入ると現在の2号線とほぼ同じルートとなったが、それまでは南を迂回し浦伊部を経由していた。宿場町片上。本陣が置かれた本格的な宿駅としては藤井宿以来である。ここには脇本陣もあった。
 宿駅のみならず港町としても重要な位置を占めていて、深い入江を持つ天然の良港と言える地形であるため、美作(岡山県北部)の外港として奈良時代から開かれたところであった。鎌倉時代までの山陽道は和気などの内陸部を通っていたことから、この町は港町としての歴史の方が古い。
 先の伊部で生産される備前焼も、多くはこの片上津から各地に積出され、商圏を広げていったのである。

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片上の町並  




 
宇佐八幡宮の狛犬は備前焼。 片上は美作とのつながりが深かったところ。津山街道(片上往来)の追分。

 片上の市街地は東西に細長く、旧山陽道はほぼ明確に残っている。西部では当時の海岸線を思わせる、緩やかに弧を描いた街路に伝統的な塗屋造り、旅館建築が見られるが、そのうち商店街のアーケードに飲込まれる。その東側も古い町並としては旧山陽道の面影はさほど多くは残っていなかった。しかしそれでも備前市により山陽道にゆかりのある史跡などには、丁寧な案内を記した標識が設置されている。今回訪ねたところで山陽道について本格的な案内のある町はここだけであった。
 所々に残る中二階の町家、白壁土蔵建築の造り酒屋、古い町の匂いはある。
 


  


三石の町並 この辺りに一里塚があった。

 片上から次の三石宿までは山間の道。現在の赤穂線備前片上駅付近で国道2号線を跨ぎ、概ね国道の北側の山麓を辿れる。民家が散見するが田園地帯が大きく広がり、国道以外は往時とさして風景が変っていないのではなかろうか。所々にある灌漑用の溜池は山陽道の時代にはもう作られていたものなのだろうか。そのような思いを抱きながら東進する。途中八木山峠を越えるのは現在の2号線も同じである。
 三石は吉井川の支流、金剛川に沿って開けた小さな盆地にある町。今では山間の田舎町というイメージでしかないが、古代山陽道の「坂長駅」が設置され、その後も江戸時代になって本陣が置かれた陸上交通の枢要地だった。中世に和気経由から片上経由にルートが変更されても、播磨と備前を結ぶ唯一の街道として、また播磨との国境に位置する重要な宿場としての位置付けは変わりなかった。宿駅としての性格は極めて強く、江戸末期の慶応元(1865)の記録では137戸の民家のうち120戸までが旅籠や宿屋だったという。
 現在の三石の町並には往時の姿は多く残っていないが、洋風建築など明治期入っての遺構が幾つか見られる。山陽道が用済みになってから、ここは耐火煉瓦の産地として賑った。今は宿場町というより煉瓦の町として知られ、町の風景にもその雰囲気が濃い。
 三石駅への上り口で山陽道はほぼ直角に北に折れ、その位置に一里塚があったというが標識が残るのみである。ここで宿場は途切れていたようで、金剛川に沿って緩やかな登りとなり、播磨との国境・船坂峠に向っていく。
 付近地図
 

                                                            (→次回へ)
   
(2005年5月4日取材)

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