特別企画 

旧山陽道を辿る(9)

35. 三石〜有年(三里)    


 「山陽道を辿る」シリーズもいよいよ中国地方を走破し、兵庫県播磨地方に足を進めていく。
 備前東端の宿駅・三石は既に山間の風情で、東には国境の船坂峠越えがあった。「中国行程記」では峠に三軒の茶屋ありと記され、「下の茶屋」「中の茶屋」「上の茶屋」と呼ばれていた。店主らは赤字経営に苦しんだらしく、山間部のこと耕作地もなく、領境で人家も遠い地で旅人だけを相手に商売するのも大変なことだったことだろう。岡山藩に陳情してようやく米六俵ずつと田畑を貸し与えられたという逸話が残る。その折に彼らは、峠道に苦労する旅人をもてなす半公共施設として子孫代々まで茶屋を守り抜く旨の誓約書を書いたというが、もちろん今は跡形もなく、道筋も山の藪の中に消えぎえになっている。ここは国道2号で短絡した。峠の下をあっさりとトンネルで抜ける。
船坂峠の麓・梨ヶ原集落


 


西有年の町並 東有年。宿番所であった松下家の邸宅跡。


 その先は播磨、平地に降りると田園の中に小さな集落が現れる。この梨ヶ原の集落は行程記にもわずかな戸数が描かれている。中世には「梨原商人」と呼ばれた商人が存在し、山陽道沿いの流通の中心であったと、集落内に建てられた看板にある。しかし今ではそんな過去を全く感じさせない小さな集落だ。水田に出て農作業をしている地元の方がわずかばかり見えるだけだ。
 山陽道はここから国道2号線から離れ、真東に山越え道となっていたようだが、踏破困難であるらしいことから省略、国道に沿い有年地区に向う。街道を辿る人にとっては「播磨の箱根」と呼ばれていたという。国道は北側をそれよりなだらかな峠道でやり過ごす。

付近地図


 有年駅前の旧道にはわずかながら町家が残る。
 

 有年地区では、開けた谷間をうねりながら進む旧山陽道を、国道2号が串刺しにしている。幾つかの集落に分れているが、宿駅の中心となったのは現在の東有年地区である。今まで細かった道幅もここでは広がり、乗用車も悠々すれ違える。当時の絵図では宿駅は東西500m、家屋100軒以上が記されており、本陣もあった。家並自体に当時の風情を感じ取ることは困難だったが、幅広い街路と、当時の敷地割のままなのかゆったりした間口の家々が並び、風格が感じられる。
 一旦国道に吸収されるがJRの有年駅の手前でまた向って右手に旧街道が残存している。有年横尾と呼ばれており、道幅は先程より狭いが町家建築が数棟残っていた。宿場から連なる町場だったのか。30年ほど前には、ここも立派な古い町並だったに違いない。そんな匂いがした。この辺りは赤穂市に流れ込む千種川流域で、川渡しの人足に多くの村人が駆り出され、また川が増水した時には宿泊客も多かったのだろう。

付近地図



  36. 有年〜正條(三里半)  



 有年からしばらく山陽道はその面影を消す。ほぼ国道2号線がその道筋を倣ったか、田圃の畦道のような形で潰されたかである。やがて相生の市街地に入る。国道はすっかり整備されバイパスとなるが、ここでの旧山陽道は現在の相生駅の南側に回り、そのまま東進する。
 この辺りから当分の間、新幹線が旧山陽道に付かず離れずの距離で並行する。徒歩行と超高速の現代交通、最極端な対比である。当時の山陽道の旅人に新幹線などを見せたら仰天どころではないだろう。
 有年宿の次の宿駅は正條であったが、その手前に片島という間宿があった。山裾に近い田園に細長く連なる集落で、いかにも街道の町らしい。町の西端では道路が改修されていたが、集落内部は山陽道時代のままだ。小さな石橋を渡った先に「片島宿本陣跡」と刻まれた山本家がある。この辺り、実にのどかな佇まいであった。
付近地図
 旧片島宿の町並。下は本陣跡。


龍野駅前の街路も旧山陽道 正条の町並。「明治天皇正條行在所」と刻まれた石碑が建つ。
 

 片島間宿と正條宿の間は短く、間もなく龍野駅前に達する。但し龍野市街は北約5kmと離れており、ここは現在揖保郡揖保川町。この辺りからが旧正條宿となる。雑然とした商店街の中で袖壁を構えた昔ながらの民家が混じる。その雰囲気は東に向かい揖保川に近づくにつれて徐々に濃くなる。
 旧宿駅としては細い街路だが、現在郵便局のある位置に道標が残る。姫路・神戸、龍野、山崎をそれぞれ示す標柱は明治15年、山陽道の役割が終焉を迎えようという頃立てられた。
 正條宿には本陣・脇本陣をはじめ問屋、船庄屋が置かれていた。船庄屋は揖保川の川運を司っていたのだろう。当時は水量が多く橋もなかったため専ら「渡し」に頼っていた。数隻の高瀬舟が常駐していたといわれ、数々の旅の記録から、幕末に至るまで架橋はされなかったようだ。現在では広々とした河川敷が広がり、新幹線や山陽本線、国道2号線が並行し難なく渡る。しかし当時は川の存在は、峠以上に旅人にとって障害だったのだ。川西に接して連なるこの正條の宿は、増水して川止めとなった際には大層宿泊客でごった返していたに違いない。
付近地図



郵便局横に保存されている道標


 
揖保川。この辺りが「正條の渡し」のあったところ。



37. 正條〜姫路(四里)
 




 揖保川の土手からは港町室津(現御津町)に向う街道が分岐していた。揖保川は龍野の醤油や更に上流の山崎方面からの物資も流通させ、網干の港(現姫路市)で積替えて海路各地に搬出されていた。
 川向うで一時的に旧山陽道は姿を消す。工場の敷地になっているからだが、すぐに復活し国道と新幹線の間を東に向う。相変わらず普通車の離合がやっとという道幅で、このような道が途切れずに残っていることに奇蹟を感じる。2号線沿いはすっかり都市近郊の雰囲気なのに、この旧道沿いは所々に伝統的な町家すら残っている。この辺り西構という。曰くありげな地名だ。


付近地図
西構の町並。この付近も山陽道の道筋が連続してよく残る。
 林田川を渡ると宿駅・鵤(いかるが)があった。これまた地名からして由緒有り気である。古代の鵤荘に由来し、斑鳩寺を中心に仏教を宣布する中心地となっていた。山陽道と寺への参道との交差点には「聖徳皇太子」と刻まれた常夜燈が二つ並んで建っている。何とも謎めいた町ではある。
 この付近、町家はほとんど残っていないが、旅館だっただろう立派な木造建築が現存している。山陽道が機能していた末期に建てられたものかもしれない。どことなく、かつて町の中心だったのだろうという匂いが漂っていた。
 鵤集落の先で国道を斜めに横切って、なおも山陽道は道筋を残す。丘陵地帯が迫って小さな峠を越える手前に案内板があった。
 「桜井の清水」竹薮の中にひっそりと石造の井戸が残る。今では涸れているのか忘れられているのか、使用されている形跡はないが、戦国時代から存在しており、「播磨十水」の一つに数えられていた。この清水が何人の山陽道の旅人の喉を潤したことだろうか。
 ここから坂を下り、一旦国道2号と合流するが、姫路バイパスの高架橋が横断する箇所で山陽道は再び姿を現す。高架下でながら風情がある家並、「明治天皇山田御小休所」と刻まれた石碑が建つ家屋もあり、茶屋を中心に小さな集落が形成されていたのだろう。
 山田集落の先は再び小高い丘を越える青山峠だ。頂き付近には無粋なゴルフ場なども建設され、趣は消え去っていた。これを下ると姫路市街地は近い。

付近地図
 
 

鵤の町並

「聖徳皇太子」と刻まれた常夜燈





 
桜井の清水付近は小さな峠道となっている。
 青山地区は典型的な郊外の住宅地で、メインの道路からはドラッグストアーやカーショップなど取りとめもない風景が続く。しかし旧山陽道はここでも健在であった。中2階の家屋が途切れがちになりながらも残っていて、その対比が歴然としていた。ここは宿駅として指定はされていなかったが、山陰に向う出雲街道の追分集落で、また明治に入ると和紙の生産でも栄えたというから、この町並はそれらの商家の名残なのかもしれない。
 旅人の喉を潤したであろう「桜井の清水」が古びた標石とともに残っていた。


 
  
 
 
 山田集落。ごく小さい家並だが明治天皇がここで休息されたことを示す石碑が残っていた。 出雲街道を分岐する青山の町並




 
 青山の家並は夢前川で途切れる。現在ではその手前の県道で途切れている。この川もかつては渡しに依ったとされ、片や橋が架けられ「はし銭二文」などと書かれた旅行記もある。その位置に今は橋はなく、国道2号の夢前橋を迂回した。
 しばらくは国道2号に一致するが、姫新線播磨高岡駅付近で北側に旧道が派生し並行する。この辺り今宿といい、城下の西縁の宿泊地であったのだろうか。一般に城下に宿泊することは公私の目的問わず旅行者には好まれなかったようで、その外側に小さな旅籠町が形成されているケースが多い。連続した古い町並ではないが所々に伝統的な町家が散在していた。入母屋の堂々とした屋根を持つ旧家もあった。付近地図
 山陽道は姫路城の手前で大きく南に折れ、国道2号線を横切る。
姫路市街地に近い今宿地区にも伝統的な町家建築が所々に残っていた。


38. 姫路〜御着(一里)
本徳寺 二階町付近ではアーケードに吸収されている。




 本瓦葺の重厚な屋根が印象的な本徳寺があり、そこから再び進路を東に取り、すっかり市街地化した商店群の中を進む。一部はアーケードの中に取り込まれていた。
 南北の通りと交差する箇所では姫路城が見渡せた。姫路は空襲によって多くが姿を消しているが、城郭とその西側は焼け残り、一部に古い町並も残っている。
 姫路城は三重の濠に囲まれており、当時の記録によると最も外側は現在の姫路駅付近までを取り囲んでおり、かなり広大な城地を有していた。現在城址としての敷地となっているのは中濠から内側である。国道2号線(神戸方面)の北側には石垣が累々と残っているが、国道は中濠を埋め立てて造成されたもので、山陽道は外濠との間の城地に引き入れられていた。

 付近地図

世界遺産ともなっている姫路城




城の東側には寺を計画的に集めた一角が残る 御着の町並。左側に本陣があった。
 山陽道を辿るのが目的なので城内を探訪・紹介することは控えそのまま東に向う。かつての城域の南東部には外濠が一部残っていて、その東側には寺町と通称される寺院の集積する地区がある。町の名も五軒邸といい由緒有り気である。池田輝政が姫路城を建設する際に城下や周辺にある寺を一箇所に集めたのが始まりで、旧山陽道はこの付近を複雑に折れている。
 


 
御着の町並
 
 高架となっている播但線京口駅の南を東に進み、暫く進むと播磨平野を潤す市川のたもとに出る。この川も江戸期には船渡しであり、渡し場は「一本松の渡し」と呼ばれていたという。現在は国道の市川橋の位置にほぼ一致している。
 市川の東岸で山陽道は南に大きく折れ、現在の新幹線と山陽本線を横切っていた。この辺りに播磨国分寺があったとされる。橋を渡るまでは市街地だったのが俄かに鄙びた景観となるが、街道沿いに際立った史蹟はない。やや古びた家並が旧道沿いであることを主張している。
 再び旧山陽道は北上し、御着駅の西構内付近で再び線路の北側に廻る。
 御着は加古川宿までのいわば「間宿」であり、旅籠が並んでいたという。幕府から正式に宿駅として定められはしなかったが駅間が広いなどの理由により旅人の宿泊に応じた集落を間宿というが、御着には本陣もあり、小規模な参勤交代の一行は受け入れることが出来たという。その通り街路幅は狭く乗用車がやっとすれ違えるほどでしかないが古い町並とも言えるほどの家並が残っていた。街道から一歩引いた位置に立派な寺があり、また中世には城が存在したということだから、集落としての歴史は深い。

付近地図
 
39. 御着〜加古川(三里)




 
曽根駅近くの高架下には各方面への道標がまとめて保存されていた。 曽根(阿弥陀)の旧山陽道

 御着からはなおも旧山陽道は当時のまま線形を残し続いている。この後明石市街地の手前まで、ごく一部除いてほぼ完全な形で道筋が連なっていて驚いた。阪神都市圏に含まれる一帯としては奇跡的とも言える。
 国道2号線の一本北側を途切れずに続く旧山陽道は、曽根駅のすぐ北側でその存在感を再び現す。とはいっても高架下の殺風景なところに残された道標群。高砂十輪寺、時光寺、曽根の松、そして(山陽道)往還を知らせるものが集められ、ここに保管されているのだろう。太さも高さも様々な姿を見ると、各街路の重要性がわかるようで面白かった。もちろん「おうくわん(往還)」と刻まれたものが一番立派だった。この辺りは高砂市、国道2号線を走ると完全な現代の近郊都市の印象しかないが、旧山陽道だけにこだわると古い顔ばかりが見えてくる。
 宝殿駅付近で一度国道に潰された道筋はすぐ生き返るが、その先加古川橋の手前で再び吸収される。東播磨の代表的な河川である加古川は、やはり当時は渡船に頼っていた。

付近地図 


  


加古川。当時の交通手段は渡し船のみだった。 橋の東岸。宿駅の佇まいがわずかながら残っている。



加古川の渡しは国道2号線の加古川橋とほぼ一致するが、東岸ではすぐに旧山陽道は復活し、幅4mほどの街路はやがて寺家商店街に吸い込まれる。行程記には「加古川町は印南郡で石橋切り、寺家町は加古郡。本陣は寺家町にあるが町続きのため加古川の宿という」と記す。加古川ではなく堤下の分岸寺川がその境界であった。西側の加古川町は駕籠屋や人足の溜まり場として、東側の寺家町は本陣・脇本陣があり旅籠の林立する宿場の中心だった。今ではその肝心の寺家町はアーケードに覆われ、面影はとどめていないが本陣の跡地には市によって案内板が掛けられ、その周囲には伝統的な町家建築も残っていた。商店街の活気がないのは北側にある複合商業施設のせいなのだろう。
アーケードに被われても古い構えを残す家々。



40. 加古川〜明石(五里)
 

 播磨路も東部に達している。加古川宿を出た旧山陽道は、しばらくは国道に付いたり離れたりしながら郊外の住宅地を進む。この付近は印南野台地と呼ばれる緩やかな丘陵が張り出していて、旧山陽道はやや起伏を繰り返しながら、ほぼ一直線に東南へ続いている。主だった川もないため水源に乏しく、随所に溜池が見られる。
 この区間は意外だった。国道2号線とはそれほどの距離を置かずして平行しているのだが、街道は4m程度と狭いもので離合も難しい箇所もあり、また所々に町家建築や豪農を思わせるような屋敷型邸宅も残っている。
 これまで旧山陽道を辿ってきて、これほど長い区間にわたって街道が原型を留めていることはなかったように思う。南北のやや広い道路と交わる箇所には信号もあるが、その他は坦々とした一本道が続く。
付近地図
 大久保には本陣が置かれていた。駅前付近では国道と線路の間の細道が旧山陽道である。ごく一部に面影を残す家があった。
 大久保から暫く旧道は途切れ途切れとなる。間もなく新幹線の高架が接近し、山陽本線と交差する位置に西明石駅がある。駅の北口付近も山陽道の一部であった。この辺りは小久保という。
 国道175号線との交差点で南下し、2号線の位置で東に折れるとすぐに明石川を渡る。ここからが明石の城下町だったところ。現在は近代的な都市景観が広がっていて、人通りも多い。
付近地図
 
 
 

高畑地区の町並。この区間は山陽道が明確に残る。



大久保の町並。ここにも本陣があった。




標準子午線の通過点を示す標柱と山陽道の道標 大蔵谷の町並
 

 明石城は西の龍野城と並び姫路城の両翼として西国大名の押さえという意図があった。西の姫路門、東の京口門の間にあった城下町の風情は、戦災復興と近年の都市化でほとんど残っていない。
 京口門の外れに大蔵谷という宿場があった。ここは奇跡的に、現在でも国道2号線の一本南に筋を残し、町家も散在程度ながら街道集落の雰囲気を残していた。宿の入口、鉤の手になる角地の交番の位置には「大日本中央標準時子午線通過地識標」の立派な石柱と、「左ひゃうご・大坂道」「右加古川・ひめぢ道」と刻まれた道標が残されていた。道標の方は幕末の慶応元年(1865)に建てられたものだ。
 大蔵谷の町並は東西1kmに渡り続いている。この南側は当時海に接していたのだろうが、今では大蔵海岸として整備され、商業施設などが建てられていた。その付近からは長大な明石海峡大橋が淡路島とを結んでいるのが見渡せた。


大蔵海岸からは明石海峡大橋が見渡せる。
                                        (→次回へ)
(2005年6月19日取材)

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