篠山の郷愁風景

兵庫県篠山町<城下町> 地図(河原町付近を示す)<篠山市>
 
町並度 7 非俗化度 3 −計画的な城下町の面影が今でも色濃い町−





妻入り商家群として知られる河原町の町並


 関ヶ原の戦に勝った徳川家は、慶長年間に大阪城に本拠を構えていた豊臣家を包囲する目的で、ここ篠山に築城したのが城下町としての始まりである。位置的にも西国から畿内への入口に当たり、豊臣系の西国大名を抑える拠点として着目したものであった。
 城は慶長14(1609)年に西国20大名、人夫延べ8万人を動員する突貫工事で、半年間のうちに一気に完成に至っている。篠山という小高い丘を利用し、四囲を堀で固め高石垣積を持つ本格的な城で、石材を周囲の山々から切出す際、田園のど真ん中に自然に道が出来たともいわれ、積まれる石には混乱を避けるため、諸大名各自の様々な印が彫られ、今でも多く眼にすることが出来る。
 城下町は城の西側に武家屋敷街を構えさせた。天保元(1830)年に大火があり、その後復興したものの、現在では多くは残っていないが、御徒士町通りと呼ばれる地区には土塀が連なり、整えられた茅葺住宅が数戸現存し武家町の雰囲気を感じさせてくれる。
 商人町は東から上河原町、下河原町、呉服町、上二階町など11カ町が整備され、特に篠山街道沿いで京都方面からの城下入口にあたる河原町は最初に町家が建ちはじめた地区で、商業の中心であった。造りがしっかりした家々が多かったこともあろうが、この地区では今でも連続した古い家並を見ることが出来る。
 現在は兵庫県内であるが、篠山は旧丹波国に属していた。この地域に多い妻入の旧家が多く見られるのが特徴で、町も妻入商家群という謳い文句で売り込んでいる。確かに近畿中央や山陽筋では余り見ることの少ない、妻面を通りに接した旧家が並ぶ様は特徴的であり、豪快さの中にも可憐さを感じる。そしてほとんど全て白漆喰で塗り込められてもいるため、明るい雰囲気の町並である。
 500m余りにわたって連なるこの商家群は城跡とならんで訪問客が訪れる代表的なところであり、観光地化されている。休憩所、見学施設や土産物屋が眼につき、町家も改修され整えられている姿が多いが、風致を乱すほどのものではなく、東部に行くに従いその色は淡くなっていく。
 城の北側の地区ではまとまった町並は多くは残っていないが、それでも所々に虫籠窓など伝統的な意匠の残る旧家が見られる。この辺りは黒豆を代表とした特産物を扱う店が多く構えている。秋には松茸や牡丹鍋など味覚には話題に欠くことのない町である。




河原町の町並




二階町の町並。土産物屋の並ぶ一番賑やかな一角だが古い町家も見られる。 西町の町並



呉服町の町並



外堀の西側には武家屋敷の遺構も残る


※画像は全て2006年5月再訪問時に撮影
訪問日:2003.09.07
(2006.05.28再取材)
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