佐敷の郷愁風景

熊本県芦北町<商業町(城下町・宿場町)> 地図
 
町並度 4 非俗化度 8 −城下町・街道の宿駅を基盤に商業が発展−





熊本県の南部、八代海に面する芦北町佐敷は中世には山城がおかれていた。球磨・葦北・八代・天草地方を支配していた相良氏は、享禄2(1529)年7月佐敷城を開城した。相良氏は後に本拠地を人吉から八代に移したため、両者を結ぶ中間に位置するこの佐敷の重要度は高まり、数々の史書にも頻繁に登場する。
 佐敷の町並はほぼ旧街道の一本道に沿って展開しています。






路地風景 旧態を保って更新された家


 この地域は薩摩に近い位置にあることから度々島津氏の攻めを受け、天正8(1580)年の佐敷計石の戦い、翌年の水俣城の戦いがあり、関ヶ原の合戦時には城の四囲を島津氏に包囲されるなどして一時島津氏の支配下ともなった。
 慶長年間頃は加藤氏の代となり、末年まで重次が城代を務めたが、元和元(1615)年の一国一城の幕令により取り壊され、その後も寛永14(1637)年の天草・島原の乱の時にも石垣の一部が破壊された。
 城なきあとも、ここは政治や交通の重要な拠点としての機能が残った。熊本藩は、肥後5ヶ町に次ぐ準町として、この佐敷を位置づけている。在郷町として指定され、城下町としての町の基盤をもとに商取引も独自にとり行われた。薩摩・肥後各々の産物の交易都市となった。この発展は当地に薩摩街道が通い、宿駅としての一面もあったからであろう。
 佐敷川と城山に挟まれた狭い平地に南北に細長い町場の中心に街道が通り熊本藩本陣の茶屋があった。北端の川端に高札場が置かれ、対岸には薩摩藩の本陣があった。この周辺は川舟が浮び、問屋が並び大層賑わいだったという。
 町家は新しい建物に挟まって散在的に残り、古い町並としての連続性は淡いが、地元は町並保存に向けての動きを示されているようで、旧街道に沿った家々の中には、目新しい格子をはめた姿も幾つか眼につく。また所々に薩摩街道と書かれた燈籠、案内板も置かれ、外来者を意識されていた。伝統を大事にする町の姿勢に共感するとともに、観光地的な開発だけは避けてほしいと願いながら町を後にした。
 







訪問日:2004.05.02 TOP 町並INDEX