薩摩山崎の郷愁風景

鹿児島県宮之城町<武家町> 地図  <さつま町>
 
町並度 5 非俗化度 7 −外城集落なき後は在郷商業町としても発展した−

   
   
 





 
山崎地頭仮屋跡の門と付近の町並
 

 県の西部、川内川の中流域左岸に山崎地区がある。国鉄宮之城線の薩摩山崎駅が設置されていたように近隣の中心集落であったはずだが、現在は時折地元の方を訪ねるばかりの小さな町だ。
 小学校の向いに屋根を葺いた門が保存されている。山崎御仮屋の跡である。薩摩独特の外城集落では、その管理を行う地頭職が仮屋と呼ばれる屋敷に起居していた。ここには明治以降もしばらく山崎村役場が置かれていた。
 当初は藩直轄領であったが慶長5(1600)に宮之城島津氏領となり、嘉永16(1639)年の薩摩藩の外城には既に山崎村の名がある。郷士集落として麓のほか、川内川畔付近には野町が形成されていたという。
 仮屋跡付近ではツル性の植物に覆われた石垣など麓集落らしい佇まいを見せるが、敷地内の家屋は取り壊されているものが多かった。一方緩い坂を下った交差点で交わる東西の街路には、一転して商家風の建物が小規模ながら連なる町並が見られ、明治以降になって在郷商業町的に賑わった様子がうかがえる。歩いていると「やま崎饅頭」という半ば風化した看板が残る元店舗もあった。平入妻入り混在の商家風建物はいずれも1階部が開放的な店舗の造りであった。かつては10数戸の店が立ち並び、宿屋もあるなど賑わったという。明治期の『県地誌』によると、人口約千人で荷船32を有し、米や麦、粟などの穀類をはじめ甘藷、麻、繭、生糸、製茶、葉煙草などを産出していた。これらのことから、川内川にも近く水運の拠点ともなっていたことが推測できる。家並は支流に沿って並んでおり、西側は川内川にぶつかり現在は山崎橋が架けられている。
 商家系・在郷町的な町並の展開は、武家町系に発祥する町がほとんどである鹿児島県においては珍しいものといえよう。麓集落の名残を想像して訪ねたが、思わぬ町並が残っており意外性の探訪となった。
 
 





 
 





 
武家地区の南側には商家風の建物が連なる町並が展開していた 
   
   

訪問日:2020.01.03 TOP 町並INDEX