関ヶ原の郷愁風景

岐阜県関ヶ原町【宿場町】 地図(関ヶ原)地図(今須)
 町並度 5 非俗化度 7 −中山道美濃路最西端の道−



 関ヶ原というとまず連想されるのが全国の領有支配関係を一変させた合戦が行われたところということだろう。日本史の重要な転機であり、また東西日本の境界でもあり、食文化や地元の言葉もここが大きな変化点ともなっている。




関ヶ原の町並
 

 合戦直後に徳川家康が町内に禁制朱印状を交付しており、既に町並が形成されていたことがわかっている。藩政期には中山道が幹線交通路として整備され、美濃路最西端の宿駅として関ヶ原と今須が整備された。
 関ヶ原宿は北国街道と伊勢街道の分岐点でもあり、非常に賑わった宿場でもあった。近江側から北陸方面を目指す場合は鳥居本宿から脇往還を北上したが、東国からはここ関ヶ原より北西進し、木之本で両者が交わっていた。30数軒を数えた旅籠には飯盛女を配置していたものも多く、旅客は遊興に多くの金を落としていったという。
 江戸前期に度重なる火災に見舞われており、その際に街路が拡幅され町が整備された。国道がそのまま宿場町を踏襲しているのもそのためである。江戸時代の旧宿場町が現在の道路交通に堪え得る幅員であるというのは驚きだ。踏襲したからそのまま街道が残されたということもできるが、大型車を含め大変交通量の多い道路であり、町並探訪には危険が伴う。しかしそれでも平入りの町家建築が連なっているのは宿場町時代の面影を感じさせ、また一角には合戦時の戦死者多数を祀った首塚も残る。
 関ヶ原宿と今須宿の間には峠があり、現在では国道で易々と通過してしまうがこの今須峠は難所であった。伊吹山の南側は鈴鹿山脈との間の鞍部になっているために季節風が吹き抜け、冬季は積雪も多いことから旅人泣かせの区間であった。
 今須宿は国道が迂回しているため比較的静かな町並が保たれている。際立って連続した伝統的町並があるわけではないが、街道集落らしい佇まいが残されていた。その中で目立つのが梁組を壁の表面に現した真壁が特徴の山崎家で、問屋をつとめていた家である。
 街路の幅も関ヶ原宿のように広いものではなかったので、さすがに潰すわけにはいかなかったのだろう。対照的な雰囲気の町並であった。
 
 




今須の町並 左は問屋を務めた山崎家




今須の町並

訪問日:2011.05.21 TOP 町並INDEX