飾磨の郷愁風景

兵庫県姫路市<港町> 地図
 
町並度 6 非俗化度 10
−港湾工業地帯と商業地に挟まれて奇跡的に残る港町の町並−
 

 

飾磨区大浜の町並 




 飾磨は姫路市街の南部、湾岸地域であり海岸線は埋立てにより工業地帯となっている。国道250号線の飾磨大橋の西詰付近が町の古くからの中心で、北側には大型商業施設のある現代を象徴するような眺めである一方で、南側は都市化と工業化の狭間で、奇跡的にも古い町並が残っていた。
飾磨区宮の町並




飾磨区天神の町並 古い町並として連続した風景が残る




飾磨区大浜の町並  飾磨区天神の町並
 

 古くは飾万津と呼ばれていたこの町は、室町時代前期に米55石を積んだ船が兵庫北関に入港したなどという記録も見られるが、西に位置する網干や新在家が揖保川の河口港として発達していたのと比べると、規模は小さいものであった。
 江戸時代に入り、池田輝政の姫路入部により姫路城が築城された際、城との間に「三左衛門堀」という水路を開削した。同時に城の造成に伴い発生した土砂を飾万津の外れにある野田川河口付近に運び、人口の島を築いた。この向島に船番所を設け、飾万津は城の外港としての役割を付与された。この一大土木工事以降も付近の水路を整備するなどして港湾機能が向上した。さらに池田氏の後姫路城に入部した本多氏によって、城の西側すぐ近くを流れていた川を利用して運河を導いた。現在も船場川として残るその運河の開通により、飾万津は藩港として大きく賑うことになったのである。
 港の発展に伴い物資・旅人ともに城下との往来も活発になり、商業町としても町場が発達していった。既に江戸前期の17世紀後半頃の記録では人口1万人近くを数え、85隻の藩船を有しており、多くの船手が生活していたとされる。但し幕末頃になると港への土砂の流入が著しくなり、大型船の入港が不可能になったことにより機能は衰退した。このため地元の有力者により湛保と呼ばれる船溜りを町の南外れに建設するなどして港の機能が確保された。それが現在漁船が停泊している辺りと思われる。
 当時は町のすぐ南は海に接していたが、現在は海岸線は遠ざかり、その部分まで野田川が延長されたような格好になっている。しかし当時の港町の核心部分は、港湾開発・都市開発ともに大きな影響を受けなかったため、路地が入組み車の進入を拒むような一角が明確に残っていた。
 内部に入ると俄かに古びた家々が目立つ風景となる。平入りで格子や袖壁が保たれた町家風の旧家が、細い路地に沿い見られる風景は、漁村と商業町を兼備えた姿であったことを思わせる。路地の傍には姫路への道標が今でも多く残り、城下の外港としての重要な位置付けがなされていたことを示しているようだ。西側に位置する天神地区には、街路の両側に町家が純度高く残る古い町並が残っており、それに交わるやや広い通りでは「近代うだつ」と称される都市部でよく見られる形のうだつ状の構築物が見られる戦前の家屋なども残っていた。
 周囲の環境との対比という面で見ても特異で価値の高い町の風景であるが、古い町並として認識されているような雰囲気は全くない。保存地区などとして整備するほどではないにせよ、古い港町の風情が素朴に残るいい町並であった。
 

※全て2007年2月再訪問時の画像を掲載しています

訪問日:2003.01.02
(2007.02.11再取材)
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