鹿野の郷愁風景

鳥取県鹿野町<城下町> 地図 <鳥取市>
 
町並度 6 非俗化度 6  −西因幡の城下町−




 中世以来因幡地方西部・気多郡の中心であったこの鹿野は城が築かれ、それをいしずえに町が古くから形成されていた。国道9号沿いから南に外れているため通過点になりやすく、知名度も今ひとつであるが深い味わいのある町である。
 大工町の町並
 

 城下町らしい都市計画が今でもそのまま受継がれている。郵便局前付近から南に直進すると城下町の中へ入っていき、加治町の北にある交差点から少しずれた位置から東西にそれぞれ大工町、上町への街路が分かれる。それぞれの街路沿いには散在的ではあるが塗屋造りで中二階、赤瓦の町家が残り、山陰の古い町並らしい佇まいを静かに残していた。
 鹿野城は「志加奴」「鹿奴」とも書いたといわれ、伯耆との国境に近い位置にあったことから防衛上の要でもあり重要な位置を占めていた。城下町が整備されたのは気多・高草郡の領主亀井氏の居城になってからで、本丸・二の丸等を築いて侍屋敷を配置、その周囲に町家を配した。ところで城主亀井茲矩(これのり)は小大名ながらも、領内の河川改修、湖沼の干拓などの大事業を手掛け、湖山池(現鳥取市域)の一部の干拓・農地化も成功させている。また鎖国令のまだ出ていない時期であったので、茲矩は幕府の許可を得て船を仕立て東南アジア各国との交易を行っている。進取の気性に富んだ領主であった。
 この茲矩の時に現在の鹿野の町がほぼ形作られたそうで、それ以後城下町としては多くの発展はなかったそうである。しかしそれ以後も在郷町として農商混交の賑やかな町であったようで、紙産業が栄えまた鍛冶屋などが多く、因幡西部の商業の中心であり続けた。
 今残る古い町家は在郷町としての商家の姿であろう。一階部が開放的な蔀戸になっていたりするのが見え、それを裏付ける。しかし街路形態や町割は城下町時代に遡る、明らかに計画的な形が随所に残り、この町の散策を興味深いものにしてくれる。
 一部の町家では外からの訪問客に対して、手芸品などを展示販売したり食事処として開放されている姿もあり、また町の要所には道しるべも設置されて、この町並を大事にしようという町の姿勢が伝わってくる。実際私が歩いていてもそれらの施設に足を運ばれている方々の姿を多く眼にし意外であった。
 古い町並の南の高台にはこの小さな町には不似合いな城址も明確に残り、地域の政治経済の中心地であったことが納得できる。

 




下町の町並  大工町の町並。城下の西側、他の町よりは一段低い位置に細長く連なります。




 下町に残る虫籠窓の旧家。一階の格子も状態良く保たれていました。 加治町の町並


右に折れると大工町方面へ。この辺りが城下町の要の位置だったのでしょう。

訪問日:2004.06.20 TOP 町並INDEX