島原の郷愁風景

長崎県島原市<城下町> 地図(武家屋敷周辺)地図(白土町付近)
 
町並度 6 非俗化度 3  −武家屋敷街・町家群と湧水のある風景−


 島原市は近年の噴火災害に見舞われながらも町の基盤が揺るぐことなく、歴史的な良い部分は不変で後世に語り継ぐべき体制が整えられている。
武家屋敷街には通りの中央に水路が残されている。




武家屋敷街の町並




武家屋敷街の町並




白土町の町並

 
 
 城下町が築かれたのは元和期(1620年頃)のことで、北側と西側に侍町、東側と南側に町家を配した。城の南東には入江があって、港を設置した。港町としてでなく漁港としても島原半島一の規模を誇っていた。有明海独特の激しい干満の差を利用した「すくい」とよばれる漁法など、古くから特殊な漁業が行われていたといわれ、藩主もその漁法に興じたという史実が残されている。またその周辺には塩浜(塩田)も開かれていたという。
 城下町としての規模は久留米・平戸と同程度であったようで、同程度の石高だった大村や唐津よりも大きな町場が形成されていたという。その理由は豊富な水資源に支えられていたからなのかもしれない。雲仙連峰の扇状地の端部にあたっているこの付近は、伏流水が湧き出す絶好の立地条件であった。代表的なものが街の南部にある白土湖で、1792年の普賢岳の噴火に伴う眉山の大崩壊以後に湧き出したといわれている。それ以外にも市街地のあちこちに湧水ポイントがあり、それが現在では観光資源ともなっている。家々の間から湧いてきた水は側溝を伝わり、それが次第に清い流れとなり海に注いでいる。
 市内随一の観光地となっている島原城の北西に残る武家屋敷街も、その街路の中心に水の流れがある。これは当時は生活用水で、川奉行が管理していたとのことだ。今では溝のような細い流れも、かつては貴重な資源だったのだろう。藩政期をはるかに過ぎた大正期まで、この水は飲用に使われていた。
 武家屋敷は全国各地の例に漏れず、塀はよく残っているものの屋敷はごく一部しか残されていない。粗末な家が多かったのだろう。観光バスでの団体客も多く訪ねる所なのに、茅葺屋根のまま保存されているそれらが無料で見学できるのは有難い。
 塀は石垣でほぼ統一され、周辺の住宅地にも石垣のある風景が広範囲に残っていた。
 一方町人町の方は秩序なく近代化され、町並としては多くは残っていない。その中で南部の白土湖に近い街路には、古い町並らしい落ち着いた家並が幾分残っていた。これらの中にも、湧水を利用し庭に取込んだものもあるという。平入りがほとんどで九州にあっては珍しい町並風景であった。
 この町並群だけでなく、島原城で島原の乱などの歴史に思いを巡らせたり、湧水風景を辿ったりと半日はこの町に費やす価値はある。市街南部には温泉も湧く。貸自転車での散策も楽しい。


 

訪問日:2005.07.18 TOP 町並INDEX