下田の郷愁風景

静岡県下田市【港町】 地図
 町並度 6 非俗化度 5 −伊豆半島随一の港町−

一丁目の町並




二丁目の松本旅館 一丁目の町並 右は文政元(1818)年に建造された代表的な海鼠壁の町家

 

 
伊豆半島近海は暗礁が多く、船の航行には注意を要する海域であったが、太平洋沿岸を江戸へ向う航路には良港が少なく、風待ちに適していたこの下田の港は大層繁盛していたそうだ。江戸時代には多くの船がここに寄港し、伊豆半島一の港町として古い歴史を刻んできた。
 上方と江戸との往来が激しくなるにつれ、江戸中期には63人の廻船業者が記録されている。かれらは番所・奉行所の補佐役とされ、また町役人に就任した者もあった。幕府はここを海の関所と定め、遠見番所を設置するなど江戸と各地とを行き交う諸船の荷物を改め、また海難の処理なども行った。それらは役人の他漁船頭とよばれる漁民の主立った者も携わっていた。当時の下田港は、「出船・入船三千艘」と俗に呼ばれた程の賑わいであった。
 幕末には外国船の来航も目立ち、最も早期のものは元文4(1739)年のロシア船の記録であり、その後英国船などの来航が続き、後に嘉永7(1854)年、下田が外国に開かれた港とされる契機となった、ペリー率いる軍艦が来航している。
 下田は伊豆急行の終点でもあることから、伊豆半島南部の観光の拠点であり多くの客がある。駅前には大きなバスターミナルがあり半島各地とを往来している。しかし駅前を出外れると、市街地の様子は観光都市というものとは異なった印象の素朴なものであり、また趣を感じさせるものであった。
 町並を印象付ける最大の特徴は伊豆半島南部で多用される海鼠壁の建物である。或るものは主屋、それに続く土蔵が壁全体にわたって海鼠壁を纏い、強烈ともいえる印象を訪ねる者に抱かせる。また他のものは二階の物干場には洗濯物が干してある一見何でもない一般の民家で、その二階部分の妻壁に海鼠壁が施してあったりする。特に後者の例は他の地域では余り見られないものとして、下田を特徴付ける独特の家屋の姿といえるかもしれない。旅館、食事どころ、その他様々なものが海鼠壁に被われ、しかもそれらの姿は取ってつけたような感じではなく深い歴史を背負ったような根深さをかもし出している。また寺院のような寄棟の屋根を持った家屋が多いのも、家並の特徴といえる。
 伊豆半島は災害の多い地で、特に地震・津波の被害は繰返し経験している。また大火も多く、防水・防火効果の高い漆喰厚塗りの壁、それも廉価に仕上げられるのが海鼠壁なのだそうだ。災害対策として広まったものが、奇しくもというか現在の町並の風情をたかめるものになっている。多くは明治以降の建築であるが、中には江戸期にまで遡るものも残っており、安政の東海地震・津波被害直後に建てられたものも存在する。
 また伊豆半島は良質の石材の産地であり、江戸初期の江戸城修築の際にここから多くの石材が海路搬送された。市街地の南部ではかつての入江と思われる川沿いに石蔵の並ぶ景観が残っており、柳が植え込まれ栃木の町並をも想起させる風情ある町並風景であった。この付近はかつて遊里として賑っていたとされ、それらしき木造建築も一部残っていた。
 地元は海鼠壁の建物を中心とする古い建物のことを認識しておられるようで、簡素な冊子を刊行して訪ねるものに役立てている。港町として計画的に造成した町並のため碁盤目に街路が直交し、面的に広がる町を迷いながら歩くのは楽しいものがある。
 





三丁目の町並 伊豆産の良石で造った蔵などが残る


訪問日:2007.05.27 TOP 町並INDEX