新地町の郷愁風景

山口県下関市<花町・商業地> 地図
 
町並度 5 非俗化度 10 −港町の歓楽街−




新地西町の町並



町の東端の国道沿いにも古い姿が一部残る。


 下関は言うまでもなく古くから港町として発展を続け、海運を通じて海外にも早くから門戸を開いていた。
 藩政時代には長らく赤間関と呼ばれ、維新後市政が敷かれても当初は赤間関市であったが、後に下関市と改称されている。眼前に関門海峡を見、九州と対峙するこの町に海運の拠点が発達するのはごく自然なことで、市街地東部の唐戸地区には洋風建築も多く残り、幕末・明治期から近代的な都市が形成されていたことを証明している。
 ここで紹介する地区は下関駅を挟んでその唐戸地区とは反対側で、遊興の地として栄えた新地町を中心とした地区である。現代になって下関駅の東側が大きく町の中心として開発され、西側や北側はさほどの開発を見なかったため、この古い繁華街は大きく破壊されることなく面影を残している。
 新地町には明治初期から新地小屋という芝居小屋があり、後に大黒屋と改称され明治15年まで存在していた。それを引継ぐように戎屋など複数の遊興施設が出来、大正から昭和戦後しばらくまで映画館なども設置され、市民の娯楽の中心地であった。
 また港町の歓楽地として、遊郭も置かれ新地遊郭と呼ばれていた。
 現在でも大通りから路地に入ると、置屋建築のような独特の建物が残り、町並景観を特徴付けている。2階部に木製の手摺を設けたものや、2階正面が銅板で葺かれたもの、玄関周りにタイル貼りを施したものなどである。この付近は戦後の新しい都市計画に捲き込まれることは一切なかったらしく、無秩序、複雑に路地が交錯する。
 このような町は、歴史的な町家建築群等とは異なり、その貴重さが認識され保存に向けて動き出すことはないだろう。今後は大規模に区画整理され、そうでなくても古い家の建替えが進んで遊郭だった頃の痕跡すら失われることになるだろう。空家となっているものや更地となっている箇所も眼につくことから、そんな気がした。
 



新地西町の町並



伊崎町の町並 銅板葺の家屋が見える。



路地風景


訪問日:2006.03.19 TOP 町並INDEX