塩津の郷愁風景

和歌山県下津町<港町・漁村> 地図  <海南市>
町並度 6 非俗化度 7 −和歌浦に対峙する港町・漁村集落−
 


 ここで紹介する塩津地区は古くは塩津浦と呼ばれ、重要な港町であった。和歌浦の南を限る山塊にへばりつくようにして集落が発達し、湾を挟んでは海南市付近の工業地帯や和歌山市街地が遠望できる。
塩津の町並(斜面地区の上端付近



海岸近くには大柄な町家建築も見られる






海岸近くの町並




斜面部の町並 石垣が多用されている
 
 
 私はこの町を訪ねるのに、紀勢本線の加茂郷駅より山の裏側からアクセスした。海を見下ろす丘の尾根部分から密集した家屋が始まり、坂道と階段が連なっている。しかし本来は海側から訪ねるべきであろう。この町の古い歴史は全て海を介在したものであり、建物も海岸に近づくにつれて大柄になる。海岸付近の平地には土蔵を従えた商家風の建築も数棟見られる。
 それらは港町として商業が発達した残像だろう。塩津浦は入江状で風波から避けることの出来る天然の良港そのものの地形で、廻船が入津すること盛んだった。主に瀬戸内海方面への海運に携わり経済的に豊かだった村民も増えていった。彼等が港に近く敷地も広く取れる平地に主に住まうのは自然のことであったのだろう。
 町を歩くとその住み分けと同時に居住地としては厳しいその地形条件を感じる。斜面にかかると宅地を確保するため石積が多用されている。この地方で多く手に入るものなのかやや扁平な形をした石を密度濃く積上げてあり、路地風景もなかなか壮観である。そして土地が許す限り家々の敷地として利用しており、袋小路も多い。
 集落の坂も半ば辺りまで上ると海の景色が眼下に展開する。漁港も整備されており美しい入江が見渡せる。江戸の初期より安房天津浦や備中真鍋島周辺など遠方への出漁も頻繁で、漁業も栄えていた。
 但し斜面上の地区では無住の家も少なからず見られた。江戸期には和歌山城下への船も通い、また明治に入っても大阪からの商船が寄港するなど重要な港として位置づけられていて、背後の賀茂地区の玄関となっていたが、紀勢本線が開通後はそれらは廃れてしまった。
 海を隔てて見える和歌浦周辺や海南付近の工業地帯とはまさに対蹠的な姿である。しかし近代の幹線流通路から隔てられてしまったことで、繁栄していた頃と余り変らない姿が今に保たれているのだろう。
 

 
 
訪問日:2009.03.29 TOP 町並INDEX