野田の郷愁風景

千葉県野田市【商業町】 地図
 
町並度 4 非俗化度 6  −江戸川の水運を得て醤油醸造業が発展−






中野台のキノエネ醤油付近の町並 中央小学校入口付近の町並






本町通の町並




本町通の町並 上花輪の町並


 千葉県は利根川と江戸川の分流点まで北西に細長く県域がのびており、野田はそうした一角にある町だ。
 この付近の利根川は江戸初期に大改修が行われ東に流路を移し、関宿から松伏(埼玉県)までの間に江戸川が開削された。江戸に直結している江戸川の水運はこの地に商業を成立させるに充分で、河岸と呼ばれる川の商港が幾つも出来た。利根川下流域の物資は関宿から江戸川に入って江戸へ向っていたが、この付近は両流域が近接しているため、利根川側の河岸で一旦陸揚げして、陸路を取り江戸川沿いに出て再度舟運に拠る輸送に切り変える方法も盛んだった。そのため野田では水陸ともに頻々と物資の行き交う環境となり、商業が大いに立地することとなった。
 その代表的なものが現在でも町の基幹産業となっている醤油醸造業であった。16世紀後半の永禄期に飯田市郎兵衛により溜り醤油が生産されたのがその始まりとされ、以後河川交通の発達とともに大消費地江戸を控えた大醸造地となった。急速に増えたのは18世紀後半頃からで、醤油仲間と呼ばれた組合を置き、販売相場の設定や江戸の醤油問屋との掛け合いなども行ったという。もともと江戸には西日本から主に淡口とよばれる醤油が運び込まれていたが、この野田の醤油は濃口と呼ばれ江戸の味覚に合っていた。そのため銚子とともに一大産地として発展し、江戸川には醤油舟が次々と下っていった。 原料となる大豆は後背地の農村部、そして塩も川を遡り容易に運び込むことができ、醤油醸造を行うにこれ以上無い土地とも言えた。
 幕末の天保期に幕府の御用醤油となった、茂木佐平冶家の亀甲萬という商標名の醤油は後のキッコーマン醤油の先駆けであった。明治に入ると野田醤油醸造組合が結成され、近代化とともに生産量をさらに飛躍的に増大させている。
 東武鉄道の野田市駅前はキッコーマン醤油の巨大な工場が鎮座し、醤油の町との印象がいきなり強烈に伝わってくる。周囲からは醤油の香ばしい匂い、或いは大豆の蒸されるきな臭いような匂いが充満している。ここは完全に近代的な工場となっていて風情には乏しいが、町の中心部、本町通りを北に進んで愛宕神社近くにあるキノエネ醤油では、黒板壁が周囲に張り巡らされ、工場の建物も土蔵や古い木造建築を利用しており、自らが古い町並を演出していた。
 また本町通りは日光街道の枝道とされていて、今では商店街となっていいるものの、所々に伝統的な建物が残り風情を感じる。醤油を材料に煎餅がこの町の名物でもあり、それを商う老舗もあった。本町通りの商家の建物の特徴は、切妻平入りの出桁町家であった。
 この町は首都圏にありながらまだ町の佇まいにゆとりがあり、地方都市らしいのどかさが残されている。
訪問日:2007.05.26 TOP 町並INDEX