和歌山県新宮市【城下町・産業町】 地図(船町二丁目付近を示す) 町並度 3 非俗化度 8 −城下町を基盤に熊野材の集散地として発達した− |
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船町二丁目の町並 | |
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上本町二丁目の町並 | |
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蓬莱一丁目の町並 | 熊野地一丁目の町並 |
新宮市は熊野川の河口右岸に市街地が展開しており、対岸は三重県に接する位置にある。大阪方面からは紀伊半島の反対側になり、半島を半周する形で辿る紀勢本線経由の特急でも4時間、また内陸部を短絡するはずの国道も深い山間部を延々と縦貫し、いずれにせよ大変時間のかかるところである。 町としての発達の歴史で最も古いものは城下町としてのもので、関ヶ原の合戦後に浅野氏が紀伊に37万石余りで甲斐から入封、家臣浅野忠吉は新宮2万8000石の領主として新宮に移った。同氏は熊野川沿いの丘に新宮城の築城を行い、西側に上屋敷・下屋敷・侍屋敷を置き、速玉大社の門前町と一体化した新宮町を形成した。その後入った水野氏が幕末まで新宮の町を統治した。 次に熊野材と呼ばれた良質の杉材と廻船の存在が挙げられる。紀伊半島は広大な森林資源を誇り、豊富な雨量も得て良質な木材に恵まれ、川運の便を得て河口に集積され、そこから海路各地に運搬されていった。特に旺盛な需要のあった江戸へ送られるものが多く、有力な廻船問屋も多数興った。紀州が徳川御三家の一つであったこととも無関係でなかったともされる。さらに、木材のみならず山間部の様々な産物や日常雑貨等も河口付近の河原に並べられ、河岸が発達、商家や宿屋も多く立地した。 熊野川の川運は山地ばかりの紀伊半島内陸部にとっては重要な交通路でもあり、また熊野詣での客にも重宝された。本宮までの上り船は2日、逆は1日と時間は要したが陸路を開削することが困難な頃、幹線交通路として多くの客、地元の人々に利用された。 明治以降、鉄道の開通などによって東北方面からの木材が東京方面と多く取引されるようになるが、熊野材は引き続き阪神地区や台湾などに販路を拡大し、また工業的に利用されパルプ工場などが多く立地した。 紀南地区と呼ばれる和歌山県南部においては田辺市につぐ大きな市街地を有している。いち早く市街地が造られた新宮城の西側一帯を訪ねると、所々に古い佇まいが見られる。船町一帯は名の通りかつて河岸があり荷や物資がこの付近を拠点に熊野川を上下した所だ。しかし、古い町並としてまとまっている箇所はなく、広域に古い建物が散見されるといった印象である。その中で、上本町付近は熊野速玉大社の門前町から発達した様子が感じられ、その付近から鍛冶町、新町といったところは賑やかな所だったと想像されるような飲食店も見られる。伝統的な構えの旅館も現役で営業されていた。 また、駅の反対側に当る蓬莱、熊野地、阿須賀といった付近も後発的に商業が発達した街区なのか、所々に商店などが趣ある構えを残している姿が見られた。 |
訪問日:2024.09.15 | TOP | 町並INDEX |
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