新湊の郷愁風景

富山県新湊市 【港町】 地図 <射水市>
町並度 5 非俗化度 8 −潟湖を囲んで発達した港町−
 


 新湊とは廃藩置県後に合併により生れた町で、以前のこの付近の中心は放生津といった。西には庄川の河口が控え、中央から東にかけては放生津潟という潟湖を囲うような地形をなしていた。低湿地帯であり、農家は裏作ができないなど条件が厳しく、売薬などと兼業していた。
 放生津は古くは越中守護所が置かれたといわれる古い歴史を持っていて、潟湖と富山湾を限る砂洲上は早くから町場化されていた。江戸初期の元禄3(1690)年には既に945軒を擁していた。
 港町としても活気を帯びていて、既に元禄9年には101艘の廻船を保有していた。それらの多くは大坂回米にあたるものだったが、北前船として松前の鰊粕を取引するものもあった。また能登地方との交易も盛んで、米を積出し復路には塩や木材を積荷とした。
 漁港としても栄え、魚問屋も多く存在し高岡や金沢と取引されていた。

八幡町の町並




八幡町の町並 放生津町の町並(内川沿いの景観)


 新湊市域は地図を見ると多くが港湾地帯なので、古い町並が残っているとは想像しにくい。その意外性も一つの魅力と言えようか。しかも海岸に近い区域ほど古い佇まいが残っている。かつての放生津潟から西に運河のように富山湾と通じていた内川は現在でもそのままの姿を残し、主にこの運河状の水辺より北側が古い町並だ。平入り、袖壁、出格子などが町家の外観上の特徴で、間口が狭く奥行深い鰻の寝床状の建て方になっている。当然ながら新しい建物も混じっているのだが、家並の連続性が高いことで町並として見映えがする。砂洲のような狭い土地に家を建てなくてはならなかったその苦労が偲ばれる。中には軽自動車ほどの幅しかない町家建築も見られた。
 放生津では地蔵信仰が古くから盛んで、往来の辻ごとに地蔵堂があり、5・6軒で一つの地蔵を囲い、守っているのだそうだ。東西のメインの街路にはそれらは目立たなかったが、路地に入ると小さな祠をあちこちに眼にすることができる。
 古い町並は内川沿いを中心として東西約1.5kmにわたり広範囲に残る。取立てて保存に値するような商家があるわけではない。しかし自然体の港町のたたずまいは雑然としているようで不思議な統一感があるようで、歩いていて面白い。




本町二丁目の町並 港町の町並



放生津町の町並
  
訪問日:2008.06.07 TOP 町並INDEX